犠牲

私は、バス乗り場の椅子に座っていた。

母に、思い切って声をかけた。

母は私の顔を少しの間見つめて、精一杯の笑顔と明るい声で返事をした。

母らしい精一杯の明るい応答だった。

バスが来て、乗り込むまでの間だけ、母と一緒に並んで歩いた。

乗り口より後ろの二人掛けの席に座って、母の前だけでずっと見せてきた顔で、母の方を向いて、手を振った。

母は、精一杯笑ってみせて、精一杯手を振っていた。

幼少の頃から、何もかもを振り切って、私を守ってきた母だった。

母は、精一杯笑顔を作って、幼少の頃から守り抜いて来た娘とさよならをした。

私が幼少の頃から、毎日一緒に手を繋いで、街を歩いて、幼稚園に通ったり、バス停の向かいにある喫茶店にも何回も行った。小学生の頃は、お稽古事の帰りに、レストランで外食を何回もした。

毎日一緒にいて、夜は並べて敷いた布団で寝た。

母は、私に、一生懸命に手を振るしかなかった。

幼い私の手も、黒くて豊かな髪の毛も、ピアノの発表会のドレス姿の私とも、その日の夕方、バスを見送りながら、お別れをした。

それより先は、一緒に行けないことを悟って母は祈った。
「どうか、あの娘をお守り下さい」と。

私だけには絶対に守られた生涯を送ってもらおうと決断した。

大きな力で守られた生涯で、この先の長い人生を歩んでくれるように、すがるような思いの希望だった。

母の使命だし、責任だと思った。
母は神様に誓っていた。

本来の母は、素朴で純粋で、美味しいものを食べる健康的な生活をこよなく愛するだけの慎ましい人だった。

私は、母の所に戻るために、人生を動かしていく。

10年後の夢を現実にする。

母も、息子も、絶対に心温かい豊かな人生を最後まで送る。

夫に、絶対にこの選択を間違っていたなんて思わせないように、温かくて豊かなふるさとでの人生を、家族みんなで一緒に送る。

そのためになら、私は何だってする。