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失われたキツネに寄せて(前田晴翔/BOYS PLANET)

 この世界には、許せることと許せないことがあります。

 許すという行為はとても尊いものです。キリストがユダを赦したように、ミリエル司教がジャンバルジャンを許したように。罪をも許す人のこころは正しく、強く、尊い。

 しかしどうしたって許せないこともあります。

 すべてを許すなど、どうしてできるのでしょうか。私たちは不完全で弱い生き物です。常に正しくはあれない。許すべきだと知りながらも、憎悪と憤怒の炎で己の身を焼きながらも、決して許せないことがあります。

 私も例に漏れず弱い生き物です。だから許しません。

マシューとハルトの『星の王子さま』をカットしたMnet。お前を許さない。

 しかし憎悪と憤怒を抱いたまま生きていくのはとても苦しいことです。私は私の感情にけじめをつけるため、ここにハルトがどれだけ『星の王子さま』のキツネを演じるに相応しい人物であったかを述べていきたいと思います。ハルトがどれだけキツネのことを理解していて、キツネと似ていて、キツネ的であるか、ということについてです。そうです。私は狂っています。

 誰も私を止められません。怒りがどれだけ人を狂わせるのか、あなた方に見せてあげます。

きみ、きれいだね

 まず原作のキツネの登場シーンから見ていきましょう。初めてキツネの姿を見た王子さまは、こう口にします。

「きみ、きれいだね」

 わかりますよね。この時点でキツネは前田晴翔です。

 ちなみにこの訳文は翻訳者によって「きみ、すてきだね」と訳されていたりもするのですが、いずれにせよハルトです。ハルトはきれいですし、すてきだからです。

 外見についてもっと単純な話をすると、ハルトの吊り目気味の目はキツネを彷彿とさせませんか?

 また『星の王子さま』に登場するキツネは一説ではフェネックであるとされているのですが、作画によってはハルトはフェネックにもなります。


きみがぼくを飼いならしてみる?

 とはいえ外見だけで云々言われても……と思われる方もいらっしゃいますよね。そこでもう少しキツネの内的な部分に目を向けたいと思います。私たち読者には隠された、キツネの正体についてです。

 『星の王子さま』においてキツネは雄として描かれています。しかし実際のところ、キツネのモデルはシルヴィア・ハミルトンという女性だったのではないかと言われています。

 シルヴィアとは何者なのか。端的に言って、彼女は作者サン=テグジュペリの愛人でした。

 そして諸説ありますが、王子さまのモデルは幼いサン=テグジュペリ本人なのではないかという解釈があります。このふたつを合わせて考えると、王子さまとキツネは恋愛関係にあったという解釈が成り立ちますよね。

 もちろんこれは乱暴な解釈で、サン=テグジュペリは王子さまとキツネの関係をはっきり「友だち」と明言しています。一方で、そのモデルであるサン=テグジュペリとシルヴィアの間には恋愛感情があったという事実は、この物語に深みを与えてくれるような気もします。

 さて、そこでマシューとハルトの『星の王子さま』を見直したいと思います。

 わかりますか? 「きみがぼくを飼いならしてみる?」と言いながら、ハルトはマシューの服を脱がせようとしています。自分で言ってて頭おかしくなりそう。ハルトはマシューの服を脱がせようとしています?

 さらにハルトは、マシューのスカーフを掴んで引き寄せ、鼻先が触れる位置にまで迫っていますよね。頭おかしくなるな。なんだこれ。ハルトは鼻先が触れる位置にまでマシューに迫っています?

 ともかくここには明確に、友情以外の感情がはたらいているように見えます。

 私は友情からはみ出た感情をすべて恋愛でくくるような無粋なことはしない主義です。それはそれとして、相手の服を脱がせたり、キスできそうな位置にまで迫ったりする行為は、おそらく恋愛にもとづくものと言って差し支えないと思います。

 つまり、ハルトは「キツネが王子さまに対して恋愛感情を抱いている」あるいは「キツネが王子さまに恋愛関係を迫っている」という解釈でこの役を演じたようです。

 そう、これはキツネと王子さまの本来の関係からははみ出すかもしれませんが、モデルであるシルヴィアとサン=テグジュペリの関係にぴったり重なるんです。

 もう少し詳しく見てみたいと思います。

「きみがぼくを飼いならしてみる?」という台詞の「飼いならす(apprivoiser)」は非常に日本語への訳出が難しい単語で、日本人はこれまで苦心しながら訳を試みてきたようです。なじみになる、なつかせる、といった訳出もあります。私はさほど韓国語に明るいわけではありませんが、韓国語と日本語の言語学的な近さを鑑みれば韓国語でも訳の難しい部分なのではないでしょうか。

 ハルトはこの「飼いならす」という曖昧な単語を恋愛関係になぞらえています。そしてこれはまさにサン=テグジュペリの真意に限りなく近いんです。というのも、もともと「飼いならす(apprivoiser)」という単語はサン=テグジュペリが自らと女性との関係を表すのに好んで使った言葉だからです。つまり「飼いならす」という単語には、そもそも恋愛関係が秘められているということです。

 そう考えると、ハルトとマシューの解釈は斬新ではありますが本質的です。彼らは『星の王子さま』に隠されたモデルたちの真の姿を暴き出して演じてしまったんです。

 あの短い時間で瞬時にこの解釈に辿り着いたハルトがどれだけキツネを演じるのにふさわしいか、みなさんわかっていただけるでしょうか。


ならわしって、大事なんだ

 そんなん偶然やんと言われると確かにそうかもしれません。ここからは、偶然では片づけられないハルトとキツネの共通点についてお話します。

 もうすこしページを進めると、キツネは以下のような台詞を言います。

「同じ時間のほうが、よかったんだけど」

「ならわしって、大事なんだ」

 キツネはならわしを大事にします。ならわしとは習慣のことです。またキツネによると、「あるひとときを、ほかの時間とはちがうものにすること」です。たとえば毎日4時には友だちに会う、というならわしができれば、4時はほかの時間とは違うものになります。

 さて、私たちが練習生について知ることのできる情報には限度があります。ほとんどわからないと言ってもいい。しかしハルトについては、確実にわかることがひとつあります。

 それはハルトに、「毎日22時には寝る」というならわしがあるということです。

 これは本人の口からも語られていますし、また宿舎生活をともにした日本人メンバーからも裏が取れています。もっと言うと、最近ついにハルトのお姉さんからも「22時就寝」という証言がありました。

 毎日22時就寝をきっちり守れるハルトが、ならわしを大事にしないわけがありません。

 ハルトは「22時に眠りにつく」という習慣をつけることで、22時からの睡眠時間をほかの時間とは違うものにしているんです。そう、身長を伸ばすための時間に。

 さらに日本人練習生たちの言葉から、「一番部屋が綺麗なのはハルト」という情報もわかっています。宿舎動画を見ていても、彼のベッドサイドは常に整えられています。布団もきれいにたたまれている。つまりハルトには整理整頓の習慣があるんです。朝起きたら布団をたたむ。これも立派なならわしです。

 キツネがならわしを大事にしているように、ハルトも習慣を大事にしている。ここに、キツネとハルトの共通点があると言えます。暴論だとお思いですか? 残念ながら私は真剣です。


絆を結んだものには、責任を持つんだ

 最後に最も重要で、最も本質的な共通点についてお話させてください。

 キツネは王子さまとお別れする際、以下のように言います。

「ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない」

「きみは、飼いならしたもの、絆を結んだものには、永遠に責任を持つんだ」

 前者の台詞が有名ですが、後者の台詞も見逃せません。「責任」という一語は、サン=テグジュペリの思想のもっとも重要な一部を成すからです。

 サン=テグジュペリが著した作品の中に『人間の土地』というエッセイがあります。そこでサン=テグジュペリは、こう述べています。

人間であるということは、とりもなおさず責任をもつことだ。

彼の偉大さは、自分に責任を感ずるところにある。自分に対する、郵便物に対する、待っている僚友たちに対する責任、彼はその手中に彼らの歓喜も、彼らの悲嘆も握っていた。

 人間はすべてのものに責任がある。特に絆を結んだものに対しては大きな責任が。それがサン=テグジュペリの考えです。

 責任を持つ、とは存外に難しいことです。特に自らが追い詰められた状態にあっては。ひとつ例を上げます。上記の引用で言及されている「彼」とは作者の同僚ギヨメのことです。ギヨメはアンデス山中で遭難し、何度も生きることをあきらめようとしながらも、強い責任感から自らを奮い立たせ生還しました。

 追い詰められ、命の危機にさらされながらも自らの責任を放棄しなかった。普通の人間にはなかなかできないことです。だからこそサン=テグジュペリはギヨメを「偉大」だと述べています。

 ハルトに話を戻します。

 彼が非常に責任感の強い子だということについて、異論はないと思います。

 オリーが「退所したいです」と言ったとき、ハルトは「そんなこと言っちゃだめだよ。思うのは自由だけど、脱落した人が多いよね。脱落した人たちにマナーがなってないよ」と言ってたしなめました。

 脱落した人たちはすでにそこにはいません。彼らの姿はハルトにはもう見えない。それでもハルトは彼らとともに1週間過ごしました。彼らを支え、励まし、絆を結びました。だからハルトは彼らに責任があった。彼らの分まで頑張らなければならないと背負い込んだ。

 第一回生存者発表式のときもそうです。ハルトはタクトに、「これからも頑張ろうね、みんなの分まで」と涙ながらに言っています。彼は脱落した人たちの分まで必死で頑張らなければならないと責任を感じていました。

 脱落したらお別れです。ハルトと、脱落したメンバーの繋がりを証明するものはなにもなくなります。目に見えるような繋がりは残らない。けれどそれは「たいせつなこと」じゃない。たいせつなのは、ハルトが彼らと共に時間を過ごしたという事実です。目には見えないけれどたしかに絆を結んだということです。

 一緒に過ごした相手に対して責任を持つ。責任があるから、彼らの分までやり遂げる。たとえ追い詰められ、毎日涙を流すくらいつらい状況にあってもその責任を放棄しない。ハルトのこの姿勢は、サン=テグジュペリの思想に、すなわちキツネの教えてくれたことに重なります。

 ハルトはその行動で、キツネの言葉を体現しているんです。


 ここまで言えば、ハルトがどれだけキツネを演じるのに相応しい人かわかっていただけたと思います。私は未だかつて、彼以上にキツネに相応しい人を見たことがありません。奇妙な日本語ですね。私も自分が何を言っているのか正直わかりません。しかし真実です。

 たとえMnetにカットされようとも、私の確信はゆるぎません。

 最後になりしたが、ハルトの王子さまになってくれたマシュー、ありがとう。ムーミンと呼ばれるメテュですが私は小さな王子さまもぴったりだと思います。かわいらしくて守りたくなるような雰囲気なのにどこか謎めいてもいる感じ。最初はメテュがキツネだったのにパートチェンジしてくれてありがとう。

 そしてMnetへ。次はありません。

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