【創作大賞2024】終末、きみの名を 第二話
次の日は、朝日が昇るのと同時に歩き出した。相変わらず寒くて、相変わらず天使はまばらで、相変わらず僕らはそれを、ぱん、ぱんとやりながら歩いた。僕の射撃の腕は悪くなかった。
時計は持っていないから何時間そうしていたのかはわからない。けれど渋谷に着くころには、日の高さから言って正午を過ぎていたようだった。
渋谷。人っ子ひとりいない渋谷だ。
あんなに人にあふれていた街が。うごめく群衆を吸っては吐き、呼吸をするようだった街が。ない。いない。どこにも人がいない。センター街にもスクランブル交差点にもハチ公前にも、どこにも。街は呼吸を止めてしまった。死んでいる。街が死んだのだ。
「ちょっと寄り道していこう」
唐突にきみがそんなことを言った。さっと僕の手を握って引っぱっていく。向かう先には、渋谷109があった。
「ぼく109入ったことないんだ。戦ってるか訓練してるか、それか魔法の研究してるかのどれかだったから」
そう言われて僕は逆らえず、素直にきみに従った。109に興味を示すきみは、結局女なんだろうか男なんだろうかということが頭の片隅にひっかかる。けれどもうそんなの些事だった。きみはきみだ。
109にはシャッターも下りていなければ鍵もかかっていなかった。僕らは警戒しながら中に踏み込む。中は多少荒れて、白骨死体が転がってはいたものの、巣になっている気配はなかった。
「化物の徘徊する街でわざわざショッピングを楽しもうという人がいたんですね」
死体を横目に僕がそう言うと、きみはうーん、と唸った。
「天使って普通の人間には見えないんだ。魔力を一定以上持ってる人にしか見えない。だから普通の人からしたら、人間が見えない何かに体を食いちぎられて死ぬ現象が多発、みたいなもんさ」
ひどい話だ。それで109に普段通り買い物に来る人もいたわけだ。僕は閉口してしまう。
つまり、天使が見えている僕は普通の人間ではないんですね。その言葉も飲み込んだ。言っても答えてはくれないという予感があったからだ。
きみはきょろきょろと視線をさまよわせながら通路を進んで、突き当りのコスメ売り場で足を止めた。ハイブランドのコスメが小さな一角に並んでいて、そこだけは死臭じゃなくて化粧品のにおいがした。きみはしげしげととりどりのルージュを眺めていたけれど、やがてその一本を手に取って僕のほうを見た。きゅ、と蓋を取る。
「どうしました」
「動かないで」
言うが早いか、きみは銃を持ったほうの手で僕の頬を抑える。硬い感触に文句のひとつでも言ってやろうとした僕の唇に、次の瞬間冷たいルージュが押し当てられた。
きみは楽しそうに口元をゆるめて、僕の唇にそれを塗りつけた。それから満足げに呟く。
「うん。できた」
ほら、と近くの鏡を指し示されて、思わずそれを覗きこむ。淡い色づきのローズピンク。唇そのものより何より、自分の顔をまじまじと見るのが初めてだったもので、僕は不思議な気持ちで鏡を見た。そうか、僕、こんな顔をしていたのか。
「似合うよ」
「似合うって」
きみの言葉に僕は笑ってしまう。僕は男なのに――いや、僕は男だったっけ? そういえば自分の性別に対する認識もひどくあやふやだ。改めて考えてみれば、女だと言われても違和感がないような気がした。不思議なものだ。記憶喪失って、性自認さえ白紙になってしまうものなんだろうか。
ああ、でもなんだかそれもどうでもいいやと思った。僕にとって大切なのは、きみが僕のことを「おまえ」と呼ぶ、それだけのことだった。
「おまえはきれいだからこれくらい自然な色味のほうが似合う」
「そうかなあ。じゃあきみは」
僕はずらりと並んだルージュに向きなおる。化粧品のことはてんでわからなかったが、自然と手は伸びた。ひとつ、手に取って、蓋を開ける。きみがしたようにきみの頬を銃で支えて、くり出したルージュできみの唇を彩った。
目の覚めるような、鮮やかな赤色。
きみは鏡で自分の顔を見て、ぱちくりとまたたいた。「赤だ」と言う声は意外そう。
「言われたことないですか? きみ、赤が似合うと思う」
きみは僕を見上げて、それからくしゃりと笑った。
「なんだそれ。言われたことないよ」
なんだそれ、と言いつつ、まんざらでもないような表情だった。ぽい、と手に持ったルージュを投げ捨てると、きみは二階に向かって歩き出した。止まったエスカレーターを一段とばしで駆け上がる背中を僕も追う。
二階に上がるとアクセサリーショップがあった。きみは指輪をはめたり、イヤリングを耳にあてたりしてしばらく遊んでいた。僕が「きみ、ピアスは開けてないんですね」と言うと、きみはすぐに「だってこわいじゃないか」と笑った。僕はそのとき、たまらなくきみのことが悲しくなった。夜が怖い、痛いのが怖い、それなのに拳銃を握ってあんな化物と戦わねばならなかったきみのことがだ。ぎゅうと胸の押しつぶされるようなこの感覚を、今の僕は悲しいとしか表現できないのだった。
「なんだよ、その顔」
きみは笑っていた。笑って、きらきら揺れる石のイヤリングをひとつ、僕の耳につけた。それからもう一方を自分の耳につけて、「おそろい」と言った。
「なんかこういうの、友だちっぽいだろ」
友だち、という言葉が僕には不思議だった。きみと僕は友だちなんだろうか。昨日出会ったばかりの、ふたりきりの生き残り。友だちと呼ぶにはなんだか奇妙なようにも思えた。
「まあぼくも普通の友だちがどんなもんかは知らないんだけどさ」
きみはくるりと僕に背を向けて売り場を出た。右手の洋服売り場に足を向けながら続ける。
「でも僕にもいたんだよ。友だちってやつが。もうずいぶん遠くになっちゃったけど」
それが言葉通りの意味なのか、それとも死んでしまったという意味なのか図りかねたから僕はなにも言えなかった。きみの背中を追う。
きみはライダースジャケットを見つけると、スカジャンを脱いでそれを着た。東京が終わったのは冬から春にかけてだったのだろう。売り場には売れ残りの冬物と季節を先取りした春物が混在していた。
「どう」
「似合います」
赤いリップと相まって、ライダースを着るとなんだか大人びて見えた。きみははにかんで、今度はデニムのジャケットを探し出してくる。それも羽織って、僕を見た。
「これは?」
「似合ってますよ」
「それしか言わないの、おまえ」
ちょっと不貞腐れたみたいな顔できみが文句を言った。僕は苦笑して「すみません」と答えた。きみはむう、と顔をしかめると、スカジャンを羽織り直して次の服を探しに行った。
たくさんの服があった。ニット、ワンピース、デニム、コートにジャケット。そして服の影に白骨死体が転がっているのを見ると、ああ「見えないなにか」から逃げてここに隠れようとしたのだな、というのがわかってなんとも言えない気持ちになった。
きみはワンピースやドレスを扱っている店の前で足を止めた。それからまっすぐ、一着のドレスの前に歩いていく。君が手に取ったのは真っ赤なAラインのワンピースだった。
それを体の前に当てると、きみはくるりと一回転してみせた。きみの着ていた服がいつのまにかきれいにハンガーにかかっていて、ハンガーにかかっていたはずの服が。
「どうかな」
きみが自信ありげな表情で僕を見た。僕は息を呑む。
オフショルダーの真っ赤なワンピース。細い腰にはリボンが飾られていて、ふわりと広がった膝丈のスカートにはレースがあしらわれていた。左耳のイヤリングが揺れる。とびきり可憐だったけれど、ファム・ファタルのような毒々しさも垣間見えた。
またぎゅうと胸が押しつぶされそうに痛くなって、僕は「きれいです」と答えた。きみはおかしそうに笑った。
「なんでまたそんな顔するんだよ」
「うまく言えません。胸が痛くて、悲しいんです」
僕の言葉に、きみは目を細めて笑った。視線を伏せて「そっか」と言う声はなんだか悲しそうだった。そしてもの言いたげでもあった。
きみは知っているのだろうか。僕の胸の痛いのが、本当はなんなのか。悲しみじゃないとしたら、この胸のつぶれるようなのは一体なんなんだろう。
きみはすぐにスカジャンとデニムに着替え直して、また次の階へと上がった。服や、アクセサリーや雑貨なんかを見ながらどんどん上の階へと上がって、八階を一周してしまうときみは「百貨店のほうにも行ってみようか」と言った。
「それから、スクランブルスクエア? だっけ」
「ああ、今建設中の」
「ううん、違うよ、数年前に完成してるはず」
そうか、数年間、僕は眠ってたんだ。今さら驚かなかった。僕がもう普通の人間じゃないらしいことはとっくにわかってたから。
「渋谷ストリームはレストランがメインなんだっけ? だったら行っても甲斐がないなあ」
言いながらきみは止まったエスカレーターをとんとんと下った。僕はそれを追いかける。
「あとはパルコ? それから」
「ねえ」
僕の呼びかけにきみは立ち止まった。「なあに」と振り向く顔が、すこしこわばっている。
「そろそろ行かないと」
人を探しているというのなら、できるだけ早く行ったほうがいい。こんな状況の東京でもしその人が生きているとしたら、きっと一刻を争うだろうから。
きみはまた僕に背を向けて、「そうだね」と言った。けれど物分かりがいいのは言葉だけで、きみは六階まで下りるとまたフロアの探索を始めようとする。僕はそれを追いかけて、言った。
「目的地はこのあたりなんでしょう? 早く行かないと」
「もうすこしだけ」
「そんなこと言ったって。こうしてる間にもその人」
そこまで言うと、きみは勢いよく振り向いた。その顔が今にも泣きそうにゆがめられていることに僕は驚く。
「そうだよ。生きてると思う?」
僕ははっとして口をつぐんだ。そうか、きみ、そうだったのか。
「こんな状況で生きてるわけないだろ。わかってるんだぼくにだって。でも先生の家に行って、そこに先生がいないのを見てしまったら、ぼくは」
きみの細い体がくずおれた。落っことした拳銃が硬い音を響かせる。僕はどうにもできずにただそれを見つめた。
「もうずいぶん旅してきた。気が遠くなるくらいたくさんの場所を探してきた。ここで最後。ここが最後の希望なんだ。ここにいなかったらぼくは認めなきゃいけない。先生はもう」
そうか、きみはわかってたんだ。きっともうきみの尋ね人が生きてはいないこと。でもそれを認められない。認めたくない。だからこんなところで無為に時間を潰そうとする。現実から目を背けるために。
僕はどうしようもなくきみがかわいそうになって、きみの前に膝をついた。記憶をなくした僕なんかにわかるはずがないのに、なぜだかきみの苦しい気持ちが伝わってくる気がした。
「大丈夫です。生きてますよ」
銃をベルトにねじ込んで、両手できみの肩を支えた。触れると、きみの細いのがよくわかった。
「きっと生きて、きみの助けを待ってます。ここにいなくてもきっとどこかに。まだきみが探してない、この世界のどこかに逃げ延びてきみを待ってます」
ほかに、かけるべき言葉はあったかもしれない。それならもう探すのはやめにしましょうと慰めるほうがよかったかもしれないし、あるいは現実を受け入れるべきですと叱咤するべきだったかもしれない。けれどそういったことは、どうしても僕には言えなかった。なんだか僕も、きみの言う「先生」に生きていてほしいと思ったのだ。そうでなければあんまり苦しいと、そう思ったのだ。
きみは顔をうつむけたまま、僕の肩に額をあずけた。しばらくそうしていて、それからちいさく「うん」と言った。
「行きましょう。早く行ってあげないと」
「うん」
きみが顔を上げる。落ちた銃を拾って、「そうだね。行こう」と笑った。
そのときだった。
「どこに行くんだ、ミラ」
知らない声が聞こえた。きみの肩がびくりと震える。僕の肩も震えていたかもしれない。だって声がしたのだ。きみと僕以外、だれもいないはずのこの街で。生きている人間の声が。にわかには信じられなかった。
「お前は帰るんだ。俺と一緒に」
僕は声のするほうを振り向いた。エスカレーターの陰からゆっくりと、ひとりの人間が姿を現す。
うしろでひとつにまとめられた黒い長髪が揺れている。長い前髪から鋭い視線がこちらを射抜いていた。男か女か、はやはりわからない。くたびれたモッズコートや革靴は男ものに見えたが、体躯は華奢だ。身長は男にしては低いが女にしては高い。
こいつがきみと同類だというのはすぐにわかった。こいつもまた拳銃を持っていたのだ。
長髪は僕を見て片眉を上げた。「お前、どうして」と驚いたような声が聞こえて、それからすぐに首を振る。
「いや。こっちのヴェガか」
それがどういう意味なのか僕にはまるでわからなかった。けれど僕について言っているのだということだけはわかって、ざらついたものが喉元にこみあげる。不気味だった。
「カストル。どうして」
きみが言った。困惑した声だった。カストルと呼ばれたやつは鼻で笑った。
「五年だぜ。お前が脱走してから五年だ。それだけあれば技術も進歩する。まだ粗いが観測が可能になったんだ。魔術学院のデータベースに登録されてるお前の個体反応を探るくらいはできるようになったってわけだ」
「カストル」がなにを言っているのか、僕にはわからなかった。けれどきみはそっと立ち上がりながら答える。
「五年ね。それだけ経ったのに、今さらぼくを連れ戻す意味があるのかい」
きみの言葉に「カストル」は肩をすくめる。
「わかってんだろ。脱走者の前例を作ればほかのやつに示しがつかない。だいいち」
手に持った拳銃をまっすぐきみのほうへ構えて、「カストル」は言った。
「人造人間は貴重な戦力なんだ。上が見逃すわけねえだろ」
今、なんて。
僕は壊れたロボットみたいに軋む体できみを見上げた。きみは感情のない瞳で「カストル」を見ていた。なにか言いたかったけれど、僕の喉はからからに乾いて声のひとつも出せやしなかった。
「貴重な戦力ね。だったらわかるだろ。もし帰れば、ぼくがどんな目に合うか」
「もちろん」
「は。それなのにぼくが、帰ると思う?」
ちょいちょい、ときみの人差し指がちいさく動いているのに僕は気づいた。立てというサインだ。僕はひどく重い体を無理に動かして立ち上がった。頭が痛かったけれど、もうそんなの今さらだとも思った。東京が壊滅していた衝撃に比べれば、こんなのまだ大したことない。
「カストル」がトリガーにかける指に力を込めるのが、僕からでも見えた。
「帰るさ。俺が連れて帰る。手足をもぐくらいの許可はもらってるからな」
言い終わるか否かのタイミングで、きみが左手を大きく振った。
その瞬間、左にあった洋服たちがいっせいに宙を舞った。僕らと「カストル」の間に分厚いカーテンを作る。驚く僕の手にきみの手が触れる。きみは僕の手を強く引いた。僕らは洋服のカーテンに背を向けて駆けだした。
「エスカレーターは」
「だめだ。すぐ追いつかれる」
エスカレーターを無視して走って、僕らはエレベーターホールまでやってきた。エレベーターだってもちろん止まっている。だけれどきみは頑丈な扉に手をかざすと、いとも簡単にそれを開けてしまった。
「跳んで」
言葉よりも先にきみは真っ暗闇に飛び降りた。手をつないだままだった僕も引きずられるように真っ逆さま。思わず目を閉じたけれど、予想したような衝撃はやってこなかった。まぶたを開くと、僕らはふわふわと浮きながらゆっくり下降しているところだった。
すごい。飛んでるんだ。そう気づいてきみの顔を見ると、きみは緊張の中にわずかに笑みを浮かべて僕を見返した。
すぐに一階まで到着して、きみはまた扉をすいと開けた。まぶしい日差しが網膜を刺す。あと五歩も走れば外だった。
けれど一歩目を踏み出した瞬間、ちりりとした熱風が頬を焼いた。目の前が真っ赤に染まる。一瞬のことだった。入口全体が、業火に包まれていた。
「罠か」
きみが舌打ちするのと、こつりとヒールの音が聞こえるのは同時だった。
「そう。兄さんがいるのにわたしが来てないと思った?」
また知らない声だ。建物の中のほうから聞こえる。そちらに目を向けると、「カストル」そっくりのボブカットの人間が出てくるところだった。ベージュのマウンテンパーカーにハーフパンツ、レースアップのショートブーツ。なにを考えているのかわからない、無感情な瞳。手にはやはり拳銃を構えている。
「久しぶり、ポルックス。ぼくなんかのために二体も寄越すなんて上はずいぶん大盤振る舞いじゃないか」
「あなたは夢井教授の弟子。魔術の腕はわたしたちの中でも随一だから」
「貴重な戦力、ね」
じり、と後退りながらきみが言う。背後で燃える炎が熱かった。すぐにもうひとつの足音が聞こえて、「ポルックス」のうしろから「カストル」が現れた。
「帰るぞ、ミラ。家出は終いだ」
「カストル」は僕らに歩み寄りながら、ポケットからなにかを取り出した。スマートフォンよりもすこしちいさい、なんらかの端末。それを見た途端きみはぎゅうと僕の手を握る力を強めた。
このままじゃ逃げられない。捕まってしまう。捕まればどうなるのかも僕にはわからない。けれどきっときみと離れ離れになる。そんな予感があった。
そしてそれは、嫌だと思ったのだ。
「カストル」が僕らの前まで来たとき、僕は体に巻きつけていた布を「カストル」めがけて思いきり投げた。「カストル」も「ポルックス」も僕のことはてんで警戒していないようだった。突然の僕の行動に「ポルックス」が目を丸くしたのが、視界の端に映る。
僕が投げた布は不思議なことに、意思を持ったように「カストル」に覆いかぶさろうとした。そしてその隙をきみは見逃さなかった。拳銃を掲げ、「ポルックス」めがけてトリガーを引く。
ぱん、と破裂音がして「ポルックス」は倒れた。「カストル」が布を引きはがすころにはもうきみの銃口は「カストル」の目の前にあった。
だけれどきみは、今度はトリガーを引かなかった。
銃身でごつりと勢いよく「カストル」の頭を殴る。「カストル」はぐらりとよろめいて膝をつく。その隙に僕たちはふたりの横を駆け抜けて建物の中へと戻った。ぱん、ぱんと破裂音が聞こえて「カストル」が僕らに銃を撃ったのがわかった。だけれどさっきの打撃が効いているのか命中率はいまいちだった。あとはもう、奥の出口から出るのは簡単なことだった。
「追ってきませんね」
「カストルが手負いの妹をこんな街にひとり放っておくことはしないさ」
「妹、ポルックスはどうなったんですか」
「死んでないよ。出力を弱めに調整したから。気絶しただけだ」
それできみがカストルにトリガーを引かなかった理由がわかった。きみはふたりを死なせたくないのだ。ふたりともを気絶させれば、ふたりは炎に巻き込まれるかもしれないし天使に食われるかもしれない。だからひとりは殴って動きを鈍らせるだけにしておいた。そうすればカストルがポルックスを守るのを知っていたから。
「あのふたりは、きみの仲間なんですね」
だから、そういう結論に達するのはそう難しくなかった。
きみは僕の手を引いて走りながらうなずいた。口元にほおえみを浮かべて。
「聞いてただろ。人造人間なんだよ、ぼくらは」
やっぱり、夢でも聞き間違いでもなかったんだ。そうわかって、僕は唇を噛みしめた。言うべき言葉は見当たらなかった。
「19世紀までは、人間の魔法使い自ら天使と戦ってたんだ。でも20世紀の後半に入って魔術界は人造人間の開発に成功した。それ以来、天使と戦うのは人造人間の役目になった」
足を止めず君が話し出す。僕は黙ってそれを聞いていた。
「人間たちはぼくらを作り、管理し、戦わせる。一体作るのには莫大な魔力リソースとお金が要る。だから貴重なんだ。上が躍起になってぼくを連れ戻そうとするのはそういうこと」
「きみはどこから逃げてきたんですか」
脱走、と言っていた。そして「上」はそんなきみを連れ戻そうとしている。けれど僕は、東京の魔術拠点である東京魔術学院が壊滅したのをこの目で見たのだ。つまりきみがもともと所属していた「魔術学院」とやらは、東京魔術学院ではない。
「遠くから。とっても遠くからだよ」
きみはそれだけ言った。遠く、もしかすると海外だろうか。だとしたら海外は、まだ東京のようにはなっていないということだ。生きている人たちが遠くにまだいる。まだこの世界は終わってはいない。その推測は僕をわずかに安心させた。
だけどきみにとっては違ったようだった。
「ぼくはもう、あそこには帰りたくないんだ」
冷たく硬い声だった。僕は不思議な気持ちになる。こんな終末の日本より、まだ人が生きているどこか遠くのほうがいいんじゃないのか。だけどきみの表情は暗く沈んでいたから、僕は質問も反論もやめた。
きみの生きたいように生きてほしいと、そう思った。
「先生の家」とやらに着くまでにそんなに時間はかからなかった。走っている途中にきみがバイクを見つけたからだ。持ち主を失ったらしいそれは、傷がついてはいたけれどまだ動くようだった。きみは迷わず飛び乗って、僕にも「乗って」と言った。僕はきみのうしろにまたがってきみの体に腕を回した。きみはフルスロットルで渋谷の街を走り抜けた。人も車もいない、信号も意味をなさない街を。
「先生の家」は閑静な住宅街にあった。二階建てのアパートの二階の角部屋へ、きみは迷いなく進んでいく。日は街に沈みつつあった。きみはいつものように注意深く、まず玄関の鍵を開けた。きみの頬に見えた緊張は、敵への警戒心やなんかじゃなかっただろう。
扉を開けて中に踏み込む。玄関に敵はいなかった。けれど仄暗い廊下に土足のまま足を踏み入れれば、そこかしこに傷がついているのがわかった。
襲撃にあったんだ。きみが息を呑んだのが僕にもわかった。
きみはまず左手の部屋の扉を開けた。そこはおそらく、「先生」の居室だったのだろう。ベッドとデスク、本棚なんかが所狭しと並べられていた、らしかった。らしいとしか表現できないのは、今は地震にでもあったかのようにあらゆるものが乱雑に散らばっていたからだ。人はいない。死体も、ない。
きみはぎゅうっと顔をしかめて、すぐにその部屋から目を背けた。嫌な予感を打ち消すようだった。
次の部屋は玄関から見て真正面にあった。深呼吸をして、きみがドアを開く。
部屋が赤いのが、窓から差し込む夕焼けのせいであればいいと一瞬思った。だけどそんなわけはなくて、リビングダイニングであろうその部屋の白い壁を、フローリングを真っ赤に染めるのは、どう見たって。
あ、ときみが意味をなさない言葉を吐いた。がしゃんと音を立てて拳銃が落ちる。おぼつかない足取りで部屋の真ん中まで進み出て、倒れたテーブルのそばに跪いた。バルコニーに通じるガラス戸が無惨に割れていて、破片がそこかしこに散らばっていた。
「せんせ」
きみがなにかを拾い上げて、そう言った。ぼくはぐっと拳を握りしめる。
「死体がありません」
必死の思いで口にした声は、みじめに震えていた。それでも言わなければならなかった。
「きっとどこかへ逃げ延びてます。探しましょう」
きみは僕に背を向けたままふるふると首を振った。
「ときどきやつらは骨まで人を食い尽くすんだ。魔力量が多い人間は特にそう」
そんな、そんな残酷なことがあってたまるか。僕は爪が皮膚に食い込むのも忘れて拳を握りしめた。きみが振り向く。その手に握りしめたなにかを僕に掲げる。それは紫色の石のペンダントだった。きみのペンダントと似ていたけれど、よく見るとひび割れて欠けている。
「ぼくが先生にあげたんだ。保護の術式を組み込んだお守り。先生はいつもこれを身につけてくれてた」
それが割れて、血まみれのフローリングに落ちている。その意味するところがわからないほど、僕も鈍感にはなれなかった。
もういないんだ。きみの「先生」はどこにも。
きみは割れたペンダントを胸元に抱きしめた。顔を深く伏せてその表情は見えなかったけれど、ちいさなつぶやきは聞こえてきた。
「先生。明日香先生」
この世の悲しみの全部を詰め込んで、きみは「先生」の名を呼んだ。僕には想像もできないほど切なくて、熱くて、胸の苦しくなる声だった。それきりきみは静かになった。
「ミラ」
声が出たのは無意識だった。
きみは驚いた顔でゆるゆると僕を見上げた。僕はきみのほうへ歩いていって、膝をつき、もう一度「ミラ」と呼んだ。カストルがきみのことをそう呼んでいた。きっとそれが、きみの名前なのだろう。
「どうして、名前」
「『先生』なら、きっときみの名を呼んだと思うから」
僕はそう言ってから、何を言っているんだろうと思った。自分でもわからない。ただきみが「先生」の名を呼んだのと同じように、きっと「先生」もきみの名を呼んだだろうと思ったのだ。もし、ここに「先生」がいたら。
「きみが、名前がなければ自分を見失ってしまうと言っていたのを思い出したんです」
「先生」を失ったきみは、大海の真ん中に身一つで放り出されたみたいに孤独に見えた。海の中に沈んで溶けて、輪郭も、自分自身も、なにもかもなくしてしまいそうに見えたのだ。きみがきみであるために、「ミラ」という名前が必要なら。それを呼ぶことになんのためらいがあっただろう。
きみは顔をくしゃくしゃにして、それから視線を伏せた。
「おまえの声は、先生とは全然違うや」
「はい」
「先生の声はもっと低くて、ちょっとかすれてる」
「はい」
きみがはあ、と吐息をこぼした。苦しそうな吐息。
「世界で一番、大切な声だったんだ」
僕は今度は、はい、とは言えなかった。
大切、という言葉が、僕にはわからない。語義は理解できる。けれど実感としてそれが湧いてこない。大切というのが一体どんな感情なのか僕にはわからない。
だけど。「先生」のことを大切だと言うきみを。苦しい声で「先生」の名前を呼ぶきみを。僕はとても眩しいと思った。
「大切だったんだ。先生が、この世界の、この宇宙のなによりも」
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