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【創作大賞2024】アンチロマンス 第五話


 レズビアン専用のマッチングアプリを使ってみようと思い立ったのは、ひとつにはもう会社の人と恋愛するのはこりごりだと思ったから。もうひとつは、ここまで男の人と恋愛ができないとなるともしかしてわたしはレズビアンなんじゃないかと思ったからだ。

 だって十人だ。十人付き合って最長三か月。これはいくらなんでも短すぎる。まっとうな恋愛ができているとは言いがたい。これはもう、実はわたしの恋愛対象は男ではないのでは? とでも思わなければやってられない。

 そんなわけで二月某日、初めてマッチングした人と会うためにわたしは京都までやって来ていた。今のわたしの住まいは大阪だけれど、阪急沿線に住んでいるから河原町まで出るのはそんなに苦じゃない。相手の人が京都で修士二年生をやっていて、なんとびっくりその大学がわたしの母校だった――つまりわたしたちは同期だったとわかって、大学トークに花が咲いたものだから京都で会うのはごく自然な流れだった。

 河原町の改札前でどきどきしながら相手を待った。どういう服を着ればいいのかわからなくて、結局前の彼氏とデートに行ったときに着たビスチェとスカートのセットアップを身にまとった。地下構内にこだまする話声のひとつひとつが耳についてなんだか落ち着かなかった。

 黒髪の女の子と目が合ったのはちょうど約束の五分前。その子はわたしを認めるとすたすたと近づいてきて、「ハルさんですか?」と聞いた。

「は、い、そうです。朝日奈あさひな陽香はるかって言います。えと、ユメさんですか」

 一度も染めた気配のない黒髪を腰まで伸ばし、ショート丈のケープコートに身を包んだ女の子。身長はわたしよりすこし高いくらい、だけれどよく見るとかなりヒールの高いブーツを履いていて、結構小柄であることが察せられた。

 彼女は相好を崩してうなずく。

「はい、葛西かさい結愛ゆめです」

 かわいい子だな、と思った。思って、いよいよわたしのどきどきは止まらなくなった。

 ユメさん、もとい葛西さんとは、寺町京極商店街にあるクリームソーダ専門店でお話しようという約束をしていた。お互い河原町近辺で行きたいお店を出し合っていたらそこで合致したのだ。京都に住んでいたころから一度行ってみたいと思いつつ、機会を逃し続けていたお店だったのでこれはわたしにとってもうれしい一致だった。

 カラフルな店内に目をみはりつつ向かい合って席に着く。ソーダは二種類を組み合わせてグラデーションにできるというので、わたしたちは張り切って色を選んだ。葛西さんはピンクとオレンジ、わたしは青とピンク。運ばれてきたクリームソーダに歓声を上げて、たくさん写真を撮って。アイスをひとさじ口に運ぶころには、わたしの緊張はすこしずつほぐれてきていた。

「実はわたし、かなり緊張してたんです。こういうの初めてで。レズ専用のアプリってどんな感じだろって不安だったんですけど」

 何の気なしにそう言った。「でも葛西さんのおかげで楽しいです」と続けようとして彼女の顔を見て、わたしは言葉を飲む。彼女は驚いたような顔でわたしを見ていた。

 急に不安が喉元へ押し寄せる。意味もわからずとっさに「すみません」と言おうとしたところで、彼女が先に「緊張、ほぐれました?」と笑った。

 ほっと息をつく。「はい、ありがとうございます」と返事をしてストローでピーチソーダを吸い上げた。一瞬の沈黙が落ちたのはそのときだった。

 なにか話題を探そうとして頭を必死ではたらかせる。やっぱり大学の話が無難かな、とその手の記憶を引っぱり出そうとしたところで、彼女が口を開いた。

「朝日奈さんは、ゲイじゃないんですよね」

 わたしは「え?」と問い返す。けれど彼女はうっすらと笑ったままなにも言わなかった。困惑しつつ、わたしは「それは、そうですけど」と答えるしかなかった。ゲイというのは男性の同性愛者のことだ。わたしは女だから、どう頑張ったってゲイにはなれない。

 けれどその答えを聞いた瞬間、彼女の顔から笑みが消えた。

 わたしはびっくりして息をのむ。なにも言えないでいるわたしに、彼女が「やっぱり」と呟いた。不機嫌そうにスプーンでグラスの中身をかき混ぜて、言う。

「教えといてあげる。私たちは自分のことレズとは呼ばないの。それは蔑称になりうるから」

 ひく、と自分の口元が動いたのがわかった。ごめんなさいと言うより先に彼女が続ける。

「私たちは自分のこと、ビアンとかクィアとか、ゲイとか呼ぶの」

 そうか、かまをかけられたんだと気づいたけれどもう遅い。わたしはさっき、「ゲイか」とたずねられて「ゲイじゃない」と言った。それはレズビアン当事者なら、否定するはずのない質問だったんだ。

 さっと顔をうつむける。頭上から彼女の不機嫌な声が降ってきた。

「なあに。人をだまして遊ぶのが楽しい?」

 わたしは顔を上げられないまま「違います」と言った。そんなつもりは本当に微塵もない。だけど彼女は「ふうん」と冷たく言った。

「じゃああんたも、一回女の子としてみたかったからとかそういうクチ?」
「ちが」

 思いもよらない言葉にばっと顔を上げる。彼女はひどく、傷ついたような顔をしていた。それで気づく。

 あんた「も」と彼女は言った。そんな人が実際にいたんだ。「女の子と一回してみたい」という理由だけで彼女をだまして傷つけた人が。

「違います」

 今更なにを言っても信じてもらえないかもしれないけれど、信じてほしかった。そんな顔をしてほしくなかった。

「たしかに今までお付き合いしてきたのはみんな男の人でした。でもわたし、自分のセクシュアリティがわからなくて。それで一度女の人と付き合ってみようと思ったんです」

 彼女と目は合わない。合わせてはくれない。でもわたしは必死で彼女の目を見た。

「一回してみたいとかそんなんじゃなくて、ちゃんと恋をするつもりでここに来てます。結果的に、もしかしたら、レズビアンじゃなかったってことになるかもしれないけど、でも断じてだますつもりは」

 言いながらすこしずつ小声になっていく。なんだかんだ自分のやっていることってひどいのかも、と思い至ったからだ。だます意図はなかったのだとしても結果的にだますことにはなるのかもしれない。だんだん自信がなくなって顔を伏せたわたしに、ちいさく彼女のため息が届く。

「男の人と付き合ってきたんでしょ? それでなんでセクシュアリティがわかんないの」

 おそるおそる顔を上げる。彼女はもう傷ついたような顔はしていなかった。かわりにあきれた顔でわたしを見ていた。

「それは」

 初対面の人に打ち明けたい話ではなかった。誰と付き合っても長続きしないなんて正直恥ずかしい。十人もの人と付き合ってきたなんて尻軽だと思われる。そもそもわたしは誰かに自分の身の上話をするのがあまり好きじゃなかった。だけど一度は彼女を傷つけてしまった手前、変にはぐらかすこともできず話し始める。

「長続きしなくて。十人付き合って最長記録が三か月なんです」

 言っていて虚しくなる。だけど彼女は続きを求めるようにわたしを見ていたから、しかたなく話を続けた。

「自分から好きになって、自分から告白したのに、いざ相手から触られたり、好きだって言われるとこわくなるんです。それでいつも振ってしまって」
「なんで?」

 彼女が思わずといったようにそう突っ込んだ。それからすぐにまくし立てる。

「意味わかんない。好きな人から愛されるってこの世で一番幸せなことでしょ。なんでそれがこわいの」
「さあ……だからもしかしてレズビアンなのかもってえ……」

 心底不思議でたまらないと言いたげな彼女の剣幕に押されてすこしのけぞる。彼女はまだなにか言いたげに首をかしげていたけれど、それらを飲み込んで「ふうん」とだけ言った。

「そう。じゃあ試してみる?」
「試す?」
「私と付き合ってみる? って聞いてるの。私初めてじゃないよ、ビアンじゃない子と付き合うの」

 どき、と心臓が硬直した。そうだ、たしかにそういう目的でアプリを始めた。だけど唐突にそんな展開になるとは思ってもいなかったし、第一いろいろ打ち明けてしまったあとでのその提案はかなり気まずい。

「い、や、それは」

 ついそんなことを口走って、しまった失礼だった、と口をつぐんだ。けれど彼女は気にした様子もなくアイスクリームをすくう。

「まあどっちでもいいけど。だいたい私、たぶんあんたのこと好きにならなさそうだし」

 ほっとしてわたしは「そうですか」と言った。今のところわたしの印象は最悪だろうから当然と言えば当然なのだけれど。

「ていうか」

 アイスクリームを飲み込んで彼女が口を開く。

「なんでそこまでして恋愛したいの」

 一難去ってまた一難だ。わたしはぐ、と息を詰めた。身を預ける木の椅子が突然に居心地悪く硬さを持つ。

「もともと男の人が好きなんでしょ? わざわざ女にまで挑戦しようとするの、私にはよくわかんない。女の子とうまくいかなかったことこれまでに何回もあったけど、それで男の子と付き合ってみようなんて思ったことないから」

 まっすぐ見つめられてわたしはえへ、と笑った。もちろんそれでごまかされてくれるはずもなく、彼女は「なんで?」と問いを繰り返す。

「めちゃくちゃ根掘り葉掘り聞いてきますね」

 顔を背けながら言うと彼女は「気になるし」とあっけらかんと答える。

 なんでそこまでして恋愛したいの? 聞かれたのは初めてじゃない。和斗には何度か聞かれたし、つい最近だってそうだ。でも答えたことは一度もなかった。和斗には、和斗にだけは答えられなかった。

 だから、まあ、和斗じゃないならいいか、というあきらめが胸の内に浮かぶ。どうせすでに印象最悪なのだ。今さら何を言ったとて恥にはなるまい。

「置いていかれたくない男の子がいて」

 話しはじめたら喉がからからに貼りついていることに気づいた。一度青色のソーダを大きく吸い込んでから、目を伏せて続ける。

「小学生の頃からずっと。その子がクラスで一番足が速かったからわたし毎日走る練習して。その子が英検三級受けたって言うからわたしは四級受けて。その子が好きな人がいるって言うから、わたしも恋してみたくて、高校のとき初めて恋人作ったんです」

 彼の見ている世界をわたしも見てみたかった。彼と同じ目線に立っていたかった。だから彼が恋をしているというのなら、わたしも恋をしなくてはならなかった。それで彼に勧められるまま恋人を作った。とりあえず付き合ってみたら、そのうち好きになるかもしれないから。

「それから大学で京都に来たのも、その子が京都の国立受けるって言ったからなんです。結局その子だけ受かってわたしは落ちたから、隣の私立に通うことになったんですけど」

 いつもそうだ。置いていかないで、と思うのに、いつもわたしは彼には敵わない。届かない。同じ世界を見ていたいのに、いつも彼はわたしには見えないものを見ている。

「大学一年のとき、その子に恋人ができたんです。それがもう妬けちゃうくらいラブラブで。ときどきインスタに写真なんかあげて」

 デートはたいてい映画館のようだったけれど、それだって趣味が合っている証拠なのだから結局うまくいっているということなのだろう。聞いてもいないのに「こないだあおいが」なんて話し始めるのもいつものことだった。

「だからそれを見るたびにわたしもちゃんと恋をしなきゃ、って思うんです。このままじゃ置いていかれちゃう」

 峰岸みねぎし和斗かずと。彼が恋をするのなら、わたしだってしてみせる。

 話し終えて、しばらく沈黙があった。それから戸惑う声が聞こえてくる。

「よくわかんないんだけど」

 顔を上げると、声に違わず困惑した顔の葛西さんがいた。彼女は続ける。

「それってその人のこと好きってことなんじゃないの」
「違います」

 彼女の言葉を否定するのに、コンマ一秒だって迷わなかった。それはもう何度だって自問した問いだったから。

「違うの? でもその人追いかけて京都の大学受けちゃうくらい強烈な感情なんでしょ? そんなの恋じゃない」
「でもどきどきもしないし。好きだなあって些細な瞬間に噛みしめたりしないし。それに想像できないんです。あいつの恋人として生きてる自分が」

 手をつないだり、キスをしたり、抱き合ったり。和斗とそういうことをする自分を、どうしても想像できない。

 わたしだってこれは恋なんじゃないかと何度も思った。置いていかれたくない。同じ世界を見ていたい。それは友情の範疇を越えてしまった執着なのかもしれないと。

 だけど三年前、真夜中の賀茂大橋で和斗に抱きしめられたときはっきりとわかった。これは恋ではないのだと。恋人に抱かれて感じた心臓の破裂するようなどきどきも、こわいくらいの、いいや真にこわいとしか言えない幸せもなにひとつ和斗には感じなかった。抱きしめられた、「その先」をまったく想像できなかった。ただ、自分の居場所はここなのだというあたたかな安心感があっただけ。

 あの賀茂大橋が分かれ目だった。あれ以来、わたしは和斗に対する自分の感情に疑問符をつけることをやめてしまった。これは恋じゃない。たとえ友情でも親愛でもないのだとしても、やはり恋ではないのだと。

 葛西さんはまたしばらく黙っていた。なにかを考えているようだったからわたしはなにも言わなかった。ロックンロールと商店街のざわめきだけが聞こえる。彼女が次に口を開いたのは、わたしがかなり溶けかけたアイスクリームを三口は食べ進んだころだった。

「想像しないようにしてるんじゃないの。恋人になったら、また三か月足らずで終わりが来るから」

 思いがけない言葉に体がぴくりと震えた。スプーンがグラスとぶつかって甲高い音が響く。その反応をどうとらえたのか葛西さんが続けた。

「その人から触られて、好きだって言われたら、きっとその人のことさえこわいと思ってしまう。もとの関係に二度と戻れなくなる。だから想像したくない。違う?」
「わかりません。考えたこともなかったから」

 ごまかしは無駄だと思ったから素直に答えた。わからない。でもたとえ彼女の言う通りなのだとしても、和斗に抱きしめられてどきどきしなかった事実は覆らない。恋、だとはやはり思えない。

 けれど葛西さんはわたしの答えに満足しなかったみたいだった。はあ、とため息をつく。

「ねえ、一回付き合ってみなよ。そしたら案外答えはシンプルかもよ」
「そんな簡単に……。付き合ってみてやっぱり恋じゃなかったってなったらどうなるんですか」
「そのときはまあ、縁が切れるかもだけど。私一回そんなことあったよ」

 さらりとおそろしいことを言って彼女はクリームソーダを吸い上げた。

「猛アタックしてなんとか恋人になったけど、二か月後に『私は恋をしないから』って振られたの。ひどくない? 恋をしないから、なんて言い訳にもならないでしょ。嫌いだって言ってくれたほうがまだマシだった」

 ああ、それはたしかアロマンティックというやつだ。いつだったか和斗が言っていた。この世界にはアロマンティックとかリスロマンティックとかいろんなセクシュアリティがあるのだと。だからおまえも無理に恋愛する必要はない、と言われてそのときは和斗の顔面に枕を投げつけたものだけれど、そういった多様なセクシュアリティがあること自体は素直にへえ、と思った。わたしは恋愛感情もあるし、両思いになりたい願望もあるからアロマンティックでもリスロマンティックでもない。けれど、そういう人たちがいることについては特に不思議だともおかしいとも思わなかった。

 が、目の前の人はその存在を知らないようで、そしてわたしも「それはきっとアロマンティックですよ」と教えてあげるほど親しくもないので黙っていた。変にやぶをつついて蛇を出したくない。

「でも付き合ったことに関しては後悔してないから。結局彼女は私のことが好きじゃなかったっていう、それもまたシンプルな答えでしょ。まあ縁が切れたのはやだったけど」

 嫌なんじゃん。と思ったけれどそれも口にしない。それくらいの分別は持ち合わせているわたしである。

「いや、でもどのみち付き合うのは無理です。あいつ彼女いるから」

 彼女が「あ、そっか」と目を丸くする。それから同情するような目。

「片思いかあ。つらいよね」
「だから恋じゃないってば」
「わかんないなあ。絶対恋だと思うんだけどなあ」

 溶けかけたアイスをソーダの中に沈めながら彼女が言う。わたしはなにか言うのも疲れて黙って残りのソーダを吸い上げた。

 彼女が「あ」と言ってスマホを取り出したのは、店を出てからだった。

「連絡先交換しとこ」

 わたしは驚いて彼女の顔を見る。彼女の目的は恋人探しだったはずだ。ところがわたしはレズビアンではなくて、つまり連絡先を交換するメリットは彼女にはない。

 わたしの顔を見て彼女は笑った。

「その彼と新展開があったら教えて。私、人の恋バナ聞くの好きなの」

 恋バナじゃないんだけどなあ。

 けれどわたしとしてもここまで心の内を打ち明けたのは彼女が初めてで、相談相手ができたのだと思えばうれしい気もした。断る理由もなくスマホを差し出す。

「ここまで来たらとことん相談に乗ってもらうからね、葛西さん」
「結愛でいいよ。任せといて、陽香」

 そんなふうに呼び合う友だちは、ここ数年は新しくできなかったものだから。なんだか不思議と照れくさくて、わたしははにかんでしまったのだった。



 その後一緒に商店街をぶらぶらして、結愛とわかれたのが十七時過ぎ。そのまま帰ってもいい時間ではあったけれど、せっかく京都まで来たし、とわたしの足は百万遍行のバス停へと向かっていた。

 学生時代はひと月に一回は和斗と顔を合わせていたけれど、わたしが就職してその数はめっきり減った。今では三か月に一度会うかどうかだ。それでも電話はしょっちゅうしたし、距離ができたわけではなかった。

 バス停の列に並びながら『京都に来てるんだけど、今から下宿行ってもいい?』とメッセージを送る。返信はすぐにあった。

『今河原町? 俺そっちまで行こうか』
『いいよ。手間でしょ』
『部屋片づけるほうが面倒だから』

 どうせ片づけるほども散らかってないのに。

 和斗の下宿に入った回数は実のところそこまで多くない。学生時代、わたしの下宿から和斗の下宿までは徒歩三十分以上でバスに乗らないとすこし面倒な距離だったし、和斗がわたしを下宿に上げるのを嫌がったのだ。恋人がいるから別の女を家に上げたくないというのはまったくもって道理で、わたしもそれを受け入れていた。だからわたしたちの合流地点と言えば、河原町のカラオケか、先斗町の居酒屋か、出町柳のカフェか。それか鴨川デルタ。もっぱらそんな感じだった。

 就職してからはなおのこと和斗の下宿まで出向くのが面倒になって、河原町近辺で会うことが増えた。けれどわたしが仕事でとんでもないミスをやらかした日だとか、上司にパワハラされた日だとか、そういう「身も世もなく泣いてしまうかも」みたいな日は和斗が渋るのも無視して和斗の下宿に上がり込んだ。最悪ベッドを貸してもらえるから。

 今日は泣く予定もないし、お言葉に甘えて河原町まで来てもらおうかな、と心が揺らぎ始めたタイミングでバスが到着した。迷っているうちに人波に流されてあれよあれよとバスに乗り込んでしまう。

 まあ、出てきてもらうのも悪いし。家に上がるのがまずいようならどこかお店に入って晩御飯でも食べよう。そんなことを考えて、『もうバス乗っちゃった』とメッセージを送信した。

 百万遍で下車し、五分ほど歩く。マンションのエントランスでチャイムを鳴らしたけれど反応はない。焦ってスマホを取り出したところで、うしろから「陽香」と声をかけられた。振り返ると呆れた顔の和斗がそこにいる。

「今外出してるからちょっと待ってろって送っただろ」
「え、ごめん見てなかった」

 スマホのホームボタンを押すと、たしかに和斗からのメッセージが入っている。そういえば一方的にメッセージを送ったあとスマホ見てなかったかも。まあこうして会えたのだから結果オーライと言うやつだ。

「どこ行ってたの?」

 エントランスの扉に鍵を差し込む和斗の後ろ姿に問いかけた。和斗は「不動産」と短く答える。がちゃりとドアが開いた。

「そか。もう修了だもんね。和斗の就職先って烏丸だっけ? その周辺で探すの?」

 この下宿ともさようならか、と思うと何だか感慨深くなる。そう何度も来たわけではないが、そのぶんここへ来たのは夜通し泣いたような日ばかりだ。ラグの上で寝落ちして、気づけばいつもベッドの上にいた。卵を焼くフライパンの音と、窓から差し込む朝日で目を覚ました。そしてなぜか疲れ切った顔の和斗がドアの向こうから顔を出して「おはよう」と言うのだ。

 階段を上る和斗のあとを追いかける。和斗は「いや」と言った。

「一人ならそれでもよかったけど」

 一人なら? どういう意味だろう。疑問に思って口を開こうとしたところで和斗が立ち止まった。階段の上でわたしに背を向けて和斗は言った。

「俺、葵と結婚するから」



「俺、葵と結婚するから」

 そう言うのにはほんのすこし勇気が必要で、ああなんだ、俺はまだ青臭くも期待しているのかと思うと滑稽だった。馬鹿馬鹿しい。陽香はどうせ祝福してくれる。それとも「わたし別れたばっかなのに」と言って怒るだろうか。どのみち俺にとっては同じことだった。

「ちゃんと決めるのは何か月か同棲してからだけど。お互い婚姻制度にあんまいい感情はないから事実婚かなとは」

 言いながら振り返って、俺は思わず言葉を止めた。そこには目をみはったまま、時が止まったように立ち尽くす陽香がいた。

 ひく、とその口角が震えて、それから陽香は「え?」と言った。へたくそな笑顔だった。

「なんで?」
「なんでって、俺も就職するし、いい機会だからって」

 声がかすれた。陽香がなぜそんな顔をするのかわけがわからなかったけれど、ただ胸がざわついて仕方なかった。

 陽香はさっと顔を伏せるともう一度「なんでよ」と言った。その声が聞きとりにくくて俺は陽香のほうに身を寄せる。続いて聞こえたのは小さな、今にも泣きだしそうな声だった。

「なんでいっつもわたしのこと置いてくの」

 意味がわからず俺は口をつぐむ。はあ、と深呼吸の音が聞こえて、それから陽香は話し始めた。

「京都の大学受けるって勝手に決めちゃうし。わたしの知らないうちに恋人できてるし。そんで今度は、結婚」

 結婚、と言ったとたん陽香はぶるりと体を震わせた。その拍子にきらきら光るものが陽香の瞳からこぼれ落ちたのが、俺にも見えた。陽香、と呼びかけようとして伸ばした俺の右手を陽香ががしりと掴む。彼女が顔を上げて、目が合った。

 そして陽香は叫ぶみたいにして言った。

「和斗はわたしのでしょ」

 その瞬間俺の脳天からつま先めがけて駆け抜けたものが何だったのか、俺にはうまく説明できない。顔をぐしゃぐしゃにして泣き叫ぶその女に俺が抱いた感情は、愛しさだったかもしれず恨めしさだったかもしれず、あるいはもっとどろどろした汚いなにかだったかもしれないのだった。

「置いてかないでよ。わたしの隣にいてよ。ほかの人のものになるなんて」

 そこまで言って陽香は力が抜けたようにしゃがみこんだ。俺の手を強く掴んだまま。俺はなにも言えずその後頭部を見つめる。思考がぐるぐると回ってまとまらなかった。

 先に俺を置いていったのはおまえじゃないのか。俺のものにならなかったのは、おまえじゃないか。

 高校二年の初夏。俺の気持ちなど知らずおまえはほかの奴と恋をした。それからおまえはずっと、俺を置いて恋に奔走していた。俺の気持ちを置き去りにした。そうだ、先に裏切ったのはおまえだった。

 そのおまえがどうして今更、ほかの奴のものになるななんて言って泣くんだ。どうして今更――。

「置いていくわけないだろ」

 だけど、恨み言なんて言えるはずがなかった。それを言えば、なにもかもばれてしまうのだから。

 陽香が顔を上げる。俺はしゃがみこんで、空いた手で陽香の肩を支えた。

「おまえのだよ。これまでだってそうだったし、これからも」

 おまえがこけたら、その手を引いて保健室まで連れて行ってやった。おまえが泣いたら、泣きやむまで背中をなでてやった。おまえがたすけてと言ったら、冬の真夜中だって迎えに行った。いつだって俺の一番はおまえだった。

「おまえが来いって言ったら、葵が行くなって言っても飛んでくよ。わかってるだろ、俺はおまえのだ」

 ぼろぼろと陽香の瞳から涙がこぼれた。俺はそれを手の甲でぬぐいながら続く言葉を飲み込んだ。

 だけど、おまえは俺のものにはならない。好きだと言ったら俺の腕をすり抜けて逃げていってしまうんだろ。

 自分は愛される価値のない人間だと信じているから、自分を愛する人間は本当の自分を見ていないのだと思い込む。だから本当の自分を知られて嫌われる前に、関係を終わらせようとする。おまえの悪癖だ。卑屈になって自分を守ろうとする。誰かに傷つけられるくらいなら、先に相手を傷つけてしまおうとする。その刃で自分自身をも切り刻みながら。

 そのくせにおまえは、無自覚に自分が俺にとっての一番であることを知っているのだ。そして俺はその傲慢につけいっておまえの隣にいることを選んだ。これまでも、これからもだ。それでよかった。好きな人から愛されるなど、もう望まないと決めたのだから。恋はあの夜、賀茂大橋の上で捨ててしまった。

「だから笑って祝福してくれよ。結婚おめでとうって」

 ここで終わらせてほしかった。青臭い期待などこれ以上抱きたくはなかった。だって置いていかないで、と泣き叫ぶおまえはまるで、兄に置き去りにされて迷子になった子どものようで。微塵も俺に気がないのが手に取るようにわかったから。

 稚拙な執着と依存などで俺に夢を見せるのはもうやめてくれ。俺はただ、おまえの親友でいられたらそれ以上望むことはない。

 びゅう、と陽香が喉を鳴らした。それからよろよろと立ち上がって「ごめん」と言う。

「そうだね。おめでとう、和斗」

 ぐしゃぐしゃの顔で笑って言って、それ以上は言葉にならないらしかった。

 俺に背中を向けて、ゆっくり陽香は階段を下りていく。俺はかける言葉もなくただその背中を見送った。二月の京都はひどく寒かった。

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