【創作大賞2024】終末、きみの名を 最終話
先生のアパートを出ると、カストルの言葉通りあたりはうっすらと暗がりに沈み始めていた。カストルを先頭に、僕らは崩壊した街を歩いた。
「探すって、どうやるんですか。僕らが109にいたのはどうやって見つけたんです」
「あれは学院がミラの場所を探知したんだ。俺たちはそこに狙いを定めて転移しただけだよ。正確な位置を把握するのは学院の魔術具がなけりゃ無理だな。ある程度近づけば魔力を感知できるから場所もわかるが」
そこでカストルは言葉を切って僕を振り返った。
「今のあいつはほとんど魔力が残ってない。だからうまく感知できない」
すい、と視線を前に戻してカストルは続けた。
「人造人間は魔力で編まれた存在だ。だから魔力が尽きれば死ぬ。今のあいつはたぶん、瀬戸際だ」
「それです。それについて聞きたかったんです」
僕はここぞとばかりに食いついた。カストルは足は止めずに「なんだ」と言った。
「限界だって言ってましたよね。中はぼろぼろだって。どうしてです。どうして魔力がほとんど残ってないんですか」
「そんなの当たり前だろ。世界線を越えるなんて大魔術、五年も立て続けに使い続けたら」
ぴた、と僕は足を止めた。カストルはいらだった様子で立ちどまる。ポルックスはやはり無感情な目をしていたけれど、僕らに合わせて歩みを止めた。
「どういうことですか」
世界線だって? 意味がわからず困惑ばかりを浮かべる僕に、カストルも不思議そうな顔をしていた。けれどすぐになにかに気づいて、「そうか、ミラは説明してないんだな」とぼやいた。
「説明って、なにを」
ミラが教えてくれたことはたしかに多くはない。人造人間だというのだって最初は隠していたのだ。この上まだ内緒にしていることがあるとしても、不思議ではなかった。
ミラが僕に隠していることって、一体なんだ。
カストルは僕に正面から向きなおった。その仕草になにか嫌な予感がする。胸騒ぎが止まらない。けれど僕の焦燥など無視して、カストルはよく通る声で言う。
「ミラも、俺たちも。この世界の住人じゃない。別の並行世界から来たんだ」
一瞬、反応できなかった。
なんてへたくそな冗談なんだろう。並行世界だって? そんなSFみたいな話があるものか。そう、笑い飛ばしたかった。できなかったのは、僕はもう化物やら魔法やら人造人間やらをこの目で見てしまったからだった。
「そんな」
僕の口から出た声はかすれていた。カストルは、それに気のせいじゃなければポルックスも、すこし悲しそうな顔をしていた。
「わかるだろ、パラレルワールドってやつだよ。世界は分岐を繰り返して、増殖し続けてるんだ」
カストルがモッズコートのポケットから小さな端末を取り出した。それを地面にかざすと仄暗くなったアスファルトに光が反射する。プロジェクターみたいに、端末から出た光がアスファルトに画像を映し出しているのだ。それは系統樹や樹形図のような図だった。
「世界の数は正確には把握できない。俺たちの世界から遠すぎる世界は観測できねえからな。存在が確認できるのは、せいぜいここ百年の間に分岐した世界だけだ」
カストルが言いながら指を中空で動かした。するとすい、と画像も動いて、一部が拡大される。
「ここが俺たちがもといた世界」
す、とカストルが樹形図のひとつの末端を指さす。すると反応するように末端に打たれた点が点滅した。
「五年前、この世界で夢井教授が死亡した」
僕はゆるゆると顔を上げる。もう驚きは麻痺してしまって、ただ悲しいような重苦しい気持ちだけがあった。カストルもポルックスも、言いようのない、微妙な顔をしていた。
「その少し前、人造人間が一体戦闘中に死亡したんだ。そのあとすぐもう一体が地方に移動になって、魔術学院の人造人間は数が足りてなかった。それで人造人間が酷使されるのを憂いた教授は自ら戦闘に立って、そこで死亡した」
夢井先生らしいな、と思った。人造人間だけを戦わせまいとする姿は、ミラから聞いた夢井先生の人間性とぴったり一致する。それゆえにやるせないような思いが胃の底にたまっていく。だってミラは、夢井先生を戦わせないために戦うことを選んだのに。
「それからすぐだ。ミラが東京魔術学院を脱走したのは。いや、学院どころかミラは世界そのものから去った。夢井教授の専門は平行世界関連だったんだ。ミラはその研究を手伝ってたから、教授が残した成果をもとに独自で世界を越える魔法を編み出した。ミラもたぶん、この端末と似たのを持ってるはずだ」
カストルが僕を見た。
「ここからは推測だが、それから五年間、ミラは『夢井教授が生きている世界線』を探して平行世界を渡り歩いていたんだと思う」
僕はミラの言葉を思い出す。たくさんの空とたくさんの海を越えて、旅を続けてきたのだと。ミラが旅したのは「この世界の中」じゃない。世界を越えて旅をしてきたんだ。
すい、とまたカストルの指が動く。図が縮小されて、樹形図の広範囲が見えるようになった。
「夢井教授が生まれたのは四十二年前。そこまで樹形図をさかのぼったのがこのポイント」
樹形図の一部に打たれた点が点滅する。そのあと、その点から分岐するすべての線が光った。
「この点から分岐した世界線は1万8562個。つまり、『ミラの知ってる』夢井教授がまだ生きてるとすればこの世界のどこかだ。ミラはおそらく、この1万8千の世界を虱潰しに調べてる途中で」
違う。僕は震える声で否定した。
「ぜんぶです」
カストルが「は」と言った。僕はカストルの目を見て言った。
「ここが最後だって言ってた。ミラはぜんぶ調べたんだ。この世界が1万8562個目なんです」
カストルが顔をゆがめた。滅多に表情を変えないポルックスまでも息を呑んでいる。
「馬鹿野郎」
カストルの呟きが落ちる。ああそうだ、馬鹿だ。1万8562個だって? それだけの世界を、たったひとりで旅してきたんだ、きみは。そしてそれだけの世界で夢井先生の死に直面してきた。1万8562の死。それはいったいどれほどきみのこころを引き裂いただろう。どれほど残酷に、どれほど無慈悲にきみにのしかかっただろう。それでも弱音を吐く仲間も友だちもなく、たったひとりきりで旅を続けなければならなかったきみ。
想像もできない。きみの笑顔の裏にある、壮絶な悲しみを。
「五年もかかっちまったから」
カストルが言った。悔しそうな声だった。
「夢井教授の残した成果では、平行世界の存在が認識できるだけでその内部は観測できなかった。だからミラがどの世界にいるのかわからなかったんだ。残された魔術師たちがその研究を引き継いだが、内部が観測ができるようになるまでに五年かかった。観測って言っても学院のデータベースに登録された魔力反応を探知する程度のことしかできないが」
それで今になってカストルたちがミラを追いかけてきたのだ。ミラが1万8千ある世界のどこにいるかわからなければ追いようがない。けれどそれがわかるようになったから、学院はミラを連れ戻そうとした。
五年かかった、というカストルの言葉からは、五年もかからなければミラをもっと早く迎えに来れたのに、というような悔恨がにじんでいた。たしかにそうすればミラは1万8千もの世界を渡り歩くことはなかっただろう。魔力が尽きて死にかけることもなかった。だけど、と僕は思う。なにがきみの幸せなんだろう。すべての世界を見て、夢井先生がもうどこにもいないことを知ってしまったきみは不幸だ。けれども、すべての世界を見る前に連れ戻されて初期化されるきみが幸福だとも、僕には思えないのだった。
なにがきみの幸せか、僕にはわからない。きみはこのまま消えたいと言った。1万8千もの先生の死を見てしまったきみがそう思うのも無理はないのだろう。
だけど僕はやっぱり、きみを死なせたくないと思う。
「ミラを、ほかの世界に逃がしてはくれませんか」
ぎゅう、と手を握りしめて僕は言った。カストルとポルックスが僕を見た。
「この世界ではもう死にかけているミラにまともな処置を施してあげられない。もといた世界に帰ればミラは初期化される。でも、ほかに世界はいくらでもあるんでしょう」
アスファルトに映った樹形図を指し示す。僕は懇願した。
「だったら、ミラがまともな処置を受けられるような世界だってあるはずだ」
「駄目だ」
否定は早かった。僕は「どうして」と半ば叫ぶようにしてたずねる。
「世界線を越えるなんて、本来は前例のない未知の魔法だ。別の世界から来た奴がその世界の住人と接触すれば、なにが起こるかわからない」
カストルが淡々と言う。愕然とする僕にカストルは続けた。
「そもそも別の世界に転移するなんて、異物が混じりこむようなもんなんだ。なにが起こってもおかしくない。ミラだってそれがわかってるから、これまでの世界では滞在時間を最小限に抑えてたんだろ。世界に被害が及ばないように」
たしかに、五年で1万8千もの世界を回ろうと思えばひとつの世界に滞在していた時間はごく短い。ミラはほとんど休みなしに世界を飛び回り続けていたことになる。誰とも話さず、おそらくは誰の目にも映らないように気を遣いながら。
「それじゃあ、ミラを生かすためにはもとの世界に戻すしかないんですね」
僕は奥歯を噛みしめた。初期化か、死か。それしか選択肢はないんだ。
カストルが端末をしまいながらうなずいた。
「そうだ。わかったら協力してくれ。ミラを探すんだ」
どうすればいいのか、僕にはわからなかった。ミラに思いを貫いてほしい。だけど、ミラに死んでほしくない。頭の中がぐちゃぐちゃになって、目がまわりそうだった。考えがまとまらない。
「お前、魔術銃は使えるんだよな」
返事をしない僕を無視してカストルが言った。僕は迷いながらもうなずく。
「でももうあと何発残ってるかわかりません。ミラが最初に込めてくれた魔力分しか撃てないから」
僕の言葉にカストルは怪訝な表情を見せた。「貸してみろ」と言われて、僕は素直に拳銃を手渡す。今さら武器を奪われるとか、そんな可能性はないだろうと思えた。
カストルは銃を受け取った途端、「なんだ」と笑った。
「魔力なんか込められてねえよ。お前は最初から、お前の魔力でこれを撃ってたんだ」
え? と声がもれた。ほら、と返される銃を受け取る。
魔力なんて込められてなかった。僕はずっと自分の魔力でこれを撃っていた。つまり僕もミラたちと同じように、魔法が使えるのだ。それもそうと意識せず、無意識のうちに。
ああ、それじゃあ僕はやっぱり。
確信を、言葉にしようとしたときだった。遠くの夜空でなにかが光ったのは。
僕らは三人そろって東の空を見た。それは流れ星のように夜空を横切っていく光だった。流れ星ではない、と気づいたのは、光がまっすぐ地上に降ってきたからだ。
「なんですか、あれ」
僕の問いにカストルもポルックスも答えなかった。二人とも、眉根を寄せて空を見ている。今度は南の空だった。光が、降ってくる。
「なにが起こって」
「わからない」
カストルが答えた。僕に視線を戻し、焦るように言う。
「初めて見た現象だ。なにかがこの世界で起きてるんだ」
ぞ、と背筋が寒くなる。目覚めてからわからないことだらけだったけれど、ミラにわからないことはなかった。ミラはすべてを知っていた。それなのに今、カストルは目の前の現象を「知らない」と言う。まったく未知のなにかが、この世界に起きようとしているのだ。
「終末」
そう言ったのはポルックスだった。僕とカストルはそろってポルックスのほうを見る。
「本当の終末が、始まるのかも」
僕は息を呑んだ。
天使が人を食い殺したあとは、火の玉が地上を焼き尽くすとでもいうのか。一体誰がそんなことを。世界? 理? あるいは神さまとやらが、この世界に本当にいるのか。いるとしてなぜこんなことを? 堕落した人間を裁くため? 世界を終わらせるため?
それとも。ミラと僕が、出会ったから。交わるはずのない世界の者が交わったことで、なにかが狂ってしまった?
「時間がない」
カストルが言った。本当にこれが終末なのだとしたら、たしかに残されている時間はそうないはずだ。ミラを見つけなければ。
「二手にわかれよう。お前はポルックスと行動してくれ。通信用の魔術具はポルックスが持ってるからそれで連絡が取れる」
てきぱきとそう言って、カストルはたん、と地面を蹴った。細い体が宙に浮かび上がる。
「あ、待ってください、まだ聞きたいことが」
「ポルックスに聞け」
それだけ言うと、カストルはびゅん、と飛んで行ってしまった。空から探すつもりなのだろう。
僕はポルックスのほうに向きなおった。無口で、感情表現が乏しいやつだ。なにを考えているのかいまいちわからない。
「あの」
「話は探しながら聞く」
質問しようと口を開けばすぐにさえぎられた。「行こう」と僕に背を向けてポルックスは歩き出す。僕は仕方なくそれを追いかけた。肩を並べてから口を開く。
「ミラはもう魔力が尽きかけてるんですよね。それなのにわざわざ未知の転移魔法を使ってまで連れ戻しに来るなんて、ミラになにかあるんですか」
大量の魔力リソースをつぎ込むから人造人間は貴重なのだ、とミラは言った。けれどカストルの話では、ミラはその魔力をほとんど使い果たしてしまった状態らしい。「処置」をしなければまともに戦えない。それなら、新しい人造人間を作るのとコストはさして変わらないんじゃないのか。
僕の疑問に、ポルックスはちらとだけ僕を見た。けれど歩みは止めず、口を開く。
「上にも同じことを言う連中がいた。ミラはもう破棄したほうがいいって。でも兄さんが絶対連れ戻すって上を説得したの」
ポルックスの言葉に僕は驚いて声を上げる。絶対にミラを連れ戻すと決めたのは魔術学院じゃない。カストルだったんだ。
「どうして」
ミラを連れ戻すことに、カストルになんのメリットがある。安全性も保証されていない未知の魔法で世界線を転移してまで。
ポルックスはただ、短くこう答えた。
「大切だから」
僕は思わず足を止める。ポルックスも数歩進んだ先で立ち止まって、僕を見た。僕はおうむみたいに繰り返す。
「大切」
「そう。兄さんは、仲間たちのことが、大切」
僕ははく、と口を動かした。でも声は出なかった。まただ。また、「大切」だ。僕にはそれがわからない。わかりたいのに、知りたいのに。
ポルックスは首をかしげる。
「わかるでしょ」
「わかりません」
僕は顔を伏せて力なく首を振った。するとポルックスは僕のとこまで歩いてきて、とん、と僕の胸を拳で叩いた。
「胸がぎゅっと痛くなるの。押しつぶされそうなくらい」
僕は顔を上げた。ポルックスはじっと、真剣な瞳で僕を見ていた。
「わかるでしょ?」
ふっと、目の前に情景がよみがえる。
真っ赤なリップに真っ赤なワンピース。左耳で揺れたイヤリング。どうかな、と言って、笑ったきみ。あのときの、胸の押しつぶされそうな痛みは。
「わかります」
僕はそう答えていた。そうか、あれは「悲しい」じゃない。あれは、あれが、「大切」なんだ。
僕は、きみが大切なんだ。
そうわかったときの、うれしいような胸のざわめくような感覚はなんだっただろう。僕も「大切」に手が届いた。それはたぶん、「うれしい」だ。だけど、何かが違う。胸のどこかで何かが違うと声を上げている。
僕の胸にぽっかり空いた「さみしい」の穴は、きみへの「大切」では埋まらない。埋まってくれない。なんなんだ、この穴は。
「人造人間にはみんな戦う理由がある」
ポルックスはまた歩き出しながら言った。空からまた光がひとつ、落ちた。
「戦うために生まれたから戦う者。戦うのが好きだから戦う者。人間を守るために戦う者」
「カストルは」
「仲間を守るために戦ってる。だから兄さんはミラをあきらめない」
馬鹿野郎、と言ったカストルの声の切なさを思い出した。そうか、あれもまた、「大切」なんだ。カストルはミラのために危険を冒してここへ来た。
ポルックスは「でも」と続けた。
「わたしが戦うのは兄さんを守るため」
まっすぐ前だけを見て、ポルックスがそう言った。感情を灯さないポルックスには珍しく、強い意志のこもった声だった。
「だからミラの気持ちも、わかる。世界で一番大切な人を奪われて、いっそ消えてしまいたいと思う気持ちが」
そう言って、数歩進んだあと、ポルックスはまた立ち止まった。ささやくみたいなちいさな声が聞こえる。
「どうするべきかわからないの。兄さんの『大切』とミラの『大切』、どっちもわかるから」
カストルがミラを連れ戻したいと思う気持ちもわかる。だけれど、ミラのこのまま消えてしまいたいと願う気持ちも理解できてしまう。だからどうすればいいのかわからない。カストルのためにミラを連れ戻すべきか、ミラの意志を尊重して逃がしてやるべきか。ポルックスは迷っているのだ。
ポルックスが僕を振り向いた。眉間にしわを寄せて僕を見る。
「ヴェガ。あなたはどう」
四度目だ。四度、その名で呼びかけられて、僕もようやくそれが僕の名なのだと理解した。理解、しなくてはならなかった。
僕は顔を伏せた。ひとつ、大きく深呼吸する。真実を知らなくてはならないと、そう思った。
「僕にそうたずねるのは、僕にも大切な人がいたからですか」
ポルックスはやはり感情の読めない瞳で僕を見ていた。けれどわずかに逡巡が見える。どう答えるべきか、迷っているような。だから僕は続けた。
「僕は、僕も。人造人間なんですよね。それも初期化された」
わずかに沈黙があった。その間にまたひとつ、光が落ちた。それに急かされるように、ポルックスはうなずいた。ああ、やっぱりそうなんだ。僕はなんだか笑ってしまった。わかれば簡単なことだった。
僕が東京魔術学院で五年も眠っていたのも。記憶がなかったのも。魔法が使えたのも。そういうことなんだ。
「この世界と、わたしたちの世界がまったく同じかはわからない」
ポルックスはそう前置いて話し始めた。
「五年前、夢井教授が亡くなるちょっと前だった。あなたの特別大切だった仲間が死んだの。上の無茶な命令のせいで。怪我してたのに、撤退を許さなかった。それであなたは激昂して、命令を出した人間を殺そうとした」
語られる言葉は遠い国の物語のようだった。それが自分の身に起こったことだとは、どうしても実感できなかった。
「わたしたちの世界ではあなたはそのあと初期化されて、名前も変えられて、地方に移動になった。でも初期化は脳に負担がかかるから、二週間から一か月昏睡状態になるの。きっとこの世界では、あなたが眠っている間に」
天使が大量に出現して、東京は壊滅した。そして僕は人造人間の防衛本能か、呼びかける者の不在のせいか、それきり目を覚ますことはなかった。天使が積極的に襲うのは人間だけだ。眠っていた人造人間は天使に気づかれることもなく、五年の歳月が流れた。
すべてを理解して、僕は細く深く息を吐いた。これでぜんぶがつながった。
やっぱり僕にもいたんだ。大切な人が。だから僕の胸にはずっと穴が空いていた。大切な人を忘れてしまった、その忘却の穴が。だから夢井先生を一途に思うミラをうらやましいと思った。僕はもう、その感情を忘れてしまったから。だからミラを大切だと自覚するのと同時に本能が「違う」と言った。僕のいっとう大切は、ほかにいたから。
ぜんぶ、ぜんぶ僕にはわかってしまった。これからのこともだ。
「ありがとう、ポルックス。これで自分がどうするべきかわかりました」
ポルックスは目を細める。「どうするの」と問われて、僕はにこりと笑った。
「ミラを連れ戻します。大丈夫、当てがあるんです。でも二人で行ったらきっとミラは警戒して逃げてしまうから、僕一人で行かせてくれませんか? さっきカストルと別れた場所で待っててください。ミラを誘導します」
僕は一息でそう言った。ポルックスはじっと僕を見ていた。僕の真意に気づいたかどうかは、わからない。けれど気づいたとしてもポルックスなら、黙って行かせてくれる気がした。
ややあって、ポルックスは静かにうなずいた。
「わかった。待ってる」
僕は最後にもう一度笑って「ありがとう」と言った。くるりと背を向けて走り出そうとすると、背後から「ヴェガ」と声が聞こえた。振り向くとポルックスが悲しそうな顔で僕を見ていた。そんな顔もするんだな、と思った。
「兄さんも、わたしも。あなたには申し訳ないと思ってる。わたしたちの世界に連れて行ってあげたいけど」
そんなことできっこない。世界線を越えるなんて、本来は未知の領域なのだから。僕は他の世界では生きていけない。崩壊するこの世界で、静かに死ぬのを待つしかない。
わかっている。わかっていた。でも今の僕は、それでもいいと思う。だから笑った。今度は心からの笑顔だった。
「気に病まないで、ポルックス。カストルにもそう伝えてください。カストルはたぶん、情に厚いから僕がどう言っても気にするんでしょうけど」
短い付き合いでカストルの性格はなんとなくわかった。冷酷そうな顔をしているけれど、なんせミラのために世界まで越えてきたのだ。きっと、とても優しい人造人間だ。
「それじゃあ」
それだけ言って、今度こそ僕は背を向けた。ポルックスは唇を噛んでいたけれどなにも言わなかった。きっとわかっていたのだろう。だけど僕の意思を尊重してくれた。どうするべきかわからない、と言いつつ、結局は僕に委ねてくれた。
たん、と地面を蹴れば、なんということはない、僕の体はふわりと宙に浮く。そりゃそうだよな、魔法使いだもの。空くらい飛べるよ。中空で黄色いペンダントをポケットから取り出した。夢井先生の部屋で見つけたペンダント。きっとこの世界のきみが身に着けていたものだ。そこに明かりを灯した。そのまま僕は高く、高く飛び上がって、光の降ってくる空へと飛翔して。
きみのもとへと、急いだ。
──
きみは109の屋上に腰掛けて、光が次々降ってくるのを眺めていた。胸元でお守りのペンダントが優しい光を放っている。先生の記憶を胸に抱きしめているみたいだと、思った。
僕は上空から下降してきみの目の前でぴたりと止まった。きみは僕を見て嬉しそうに笑った。
「来てくれないかと思った」
僕はほおえみを返す。実のところ二択だった。夢井先生ときみの家か、ここか。だけど夢井先生の家は、あんまり悲しいと思ったのだ。きみが1万8562回目の先生の死に直面した場所だ。そんな場所でひとり終末を待つきみを、僕は想像したくなかった。それに109であればいいと思ったのだ。きみが僕を待つなら、きみと僕の思い出の場所がよかった。
「飛ぶの、うまいじゃないか」
僕がきみの右隣に着地するとからかうようにきみは言った。僕はきみにならって座りながら「自分の正体に気づいたらなんてことはありませんでした」と答える。
「そう。知ったんだね」
きみが言う。僕はうなずいた。
「ポルックスから聞きました。僕に大切な人がいたことも、その人が死んだことも、僕がそれを忘れてしまったことも」
きみは悲しそうにほおえんでいた。それからすこし、顔をうつむける。
「ごめんね。知れば悲しむかなって思ったんだ。だからなにも話さなかった」
吐息をひとつこぼしてきみは語り始める。
「おまえはさ。本当に、銃が似合わないような、穏やかなやつだったんだよ。仲間を大事にしてた」
それから顔を上げて、首を軽くかたむけた。左耳のイヤリングが揺れる。
「ぼくら、友だちだったんだ」
僕はうなずいた。もう覚えてはいなかったけれど、覚えていないことがたまらなく悔しかったけれど、それでもきみが僕を友だちだと言ってくれたことが嬉しかった。
「でもおまえにとっての一番はアルタイルだった。名前のせいかな? 彦星と織姫だから。おまえとアルタイルはいつも一緒にいて、ちょっと気性の荒いアルタイルと穏やかなおまえはでこぼこがはまるみたいにぴったりで。おまえのアルタイルを見る目は、本当に、優しくて」
きみの声が僕の知らない僕を紡いでいく。ゆっくり、大事に記憶を紐解くように。
でもだめだ。どれだけ言葉を尽くされても、僕にはどうしても思い出せない。大切な人がいたこと。その人といつも一緒にいたこと。激昂して人間を殺そうとするほどに、大切だったこと。
思い出せないことが僕にはどうしようもなくさみしかった。さみしくて痛くて、胸に何かつっかえているような苦しみが消えなくて。
きみが僕を見た。それからくしゃりと顔をゆがめた。
「さみしいの」
僕はうなずいた。きみは「ごめん」と言った。
「わかってたんだ。おまえを起こさないほうがいいって。そうしたらおまえは、大切な人を忘れてしまったことも、東京が壊滅したことも知らずに穏やかに眠ったままでいられた。眠ったまま世界の終わりを迎えられた。なのにぼく」
きみが顔を伏せる。僕はきみの言葉を待った。きみは気持ちを落ち着けるように何度か呼吸をしてから続けた。
「五年間、誰とも言葉を交わさなかったんだ。人目にもつかないようにした。転移した世界で先生が死んでるって現実を突きつけられて、すぐに次の世界に渡って。そんなことを繰り返して、やっとたどり着いた最後の世界がここ。想像できる? 最後の希望の地で、人ひとりいなくなった魔術学院を見たときの僕の気持ちが」
僕はなにも言わなかった。だって想像もできなかったから。
「こころがばらばらになりそうだった。そのまま拳銃を自分の頭に突きつけて、ずどんとやってしまおうかって思ったよ。だけどわらにもすがる気持ちで生存者を探してて、おまえが、眠ってるのを見つけてぼくは」
きみが顔を上げた。僕と目が合う。きみは初めて会ったときの、あの不思議な深さをたたえた瞳をしていた。
「我慢できなかったんだ。誰でもよかった。誰かの声が聞きたかった。懐かしい声を聞いて、ひとりじゃないって思いたかった。それでぼく、おまえを起こした。手伝ってほしいからなんて嘘なんだ。ただ、誰かにそばにいてほしかった」
きみは五年間、たったひとりで旅を続けてきたんだ。ひとつひとつ夢井先生の死に向きあいながら。そうして最後に崩壊した世界で、僕を見つけた。
誰でもよかった。でも僕だった。
「起こさなければ、おまえはたくさんのさみしいも悲しいも、知らないままでいられたのに。ぼくのせいで」
「いいんです」
僕はきみの言葉をさえぎった。後悔と懺悔の言葉を聞きたいわけじゃなかったから。僕は僕を見るきみの目をまっすぐに見つめ返した。
「だってきみに出会えたから」
誰でもよかった。でも僕だった。僕はそれを、幸運だと思う。
笑いかけるときみも笑った。申し訳なさそうな笑顔だったけれど、もう「ごめん」とは言わなかった。
空から降る光の数は段々増えていく。きみはそれを見上げて目を細めた。
「世界の終わりって、こんな感じなんだね」
僕も空を見上げた。落ちていく光は、刹那にきらきら光ってきれいだった。公民館の屋上できみと燃やした花火みたいだと思った。
「本当は迷いました。きみを、カストルたちのところへ連れていくべきかどうか」
うん、ときみは言った。僕は続ける。
「でもポルックスから真実を聞いたとき、きみを渡せないと思ったんです。だって大切な人を忘れてしまうっていうのは、本当に苦しくて、さみしいことだから」
「アルタイル」を忘れてしまった自分のことを、僕はとびきり哀れだと思う。ふさがらない穴があること。「大切」を失くしてしまったこと。それになにより、僕から忘れられた「アルタイル」がかわいそうだとも。人は死んだら生きている者の記憶の中にしか残らない。それなのに、誰よりも覚えていてあげなくてはならなかった僕が「アルタイル」を忘れてしまった。僕の中で「アルタイル」はもう一度死んだのだ。
夢井先生ときみを、そんな目に合わせたくなかった。1万8562もの世界を孤独に旅するほどにただ一人を思い続けたきみに、その思いを貫いてほしかった。
きみに生きていてほしい、死んでほしくない。その思いは変わらない。だけどきみの思いを踏みにじって、きみという生き方を捻じ曲げて、大切なものを奪ってまで生かしたいとは、僕には思えないのだ。だって夢井先生も言っていた。大切なのは、ミラがミラとして生きることだと。
だからここで、この世界できみを終わらせる。そう決めた。
きみは笑って「ありがとう」と言った。
いよいよ空から降る光は激しくなって、渋谷の交差点の真ん中にも一筋の光が落ちた。するとごう、と炎が燃え広がって、地上は明るく照らされた。
「カストルたちは帰れたかな」
きみが言った。僕は答えた。
「ポルックスがいるから大丈夫ですよ」
カストルはきっとミラをあきらめないだろう。今も僕が来るのを待っているか、それとも僕のついた嘘なんてすぐ見破ってミラを探し回っているか。カストルのその思いも、僕にはわかる気がした。絶対に死なせたくないと思うその「大切」も。
でも今回はどうか、あきらめてほしい。
きっと大丈夫だ。ポルックスは絶対にカストルを死なせたくないだろうから、いよいよ危機が迫れば力づくでもカストルをねじ伏せて帰るだろう。僕にはなんとなく、その情景が目に浮かぶ気がした。
僕の言葉にきみは楽しそうに笑った。
「そう、ポルックスってぼうっとしてるように見えてしっかり者なんだよ。それに意外と強気。カストルとポルックスは同時に開発された人造人間でね、戦闘力も魔力量も互角なんだけど、カストルはポルックスに勝てたことないんだ。模擬戦になると、絶対カストルが手加減しちゃうから。妹相手に本気出せないんだって」
くすくすと笑い声をこぼして、最後は吐息みたいにきみは言う。
「だからきっと、もう帰っちゃったよね」
さみしそうな声だった。僕はほんの少しだけ自分の決断を後悔しそうになって、だけど今さらそんなことは絶対したくなかったからぎゅっと奥歯を噛みしめた。
きみが僕を見た。やっぱりさみしそうな目をしていた。
「ねえ、手を握ってくれ」
そう言ってきみが右手を差し出した。その手は指先から黒く腐りかけていたから、僕は手を握る代わりにきみを抱き寄せた。
「なあに、さみしいの」
笑みを含んだ声できみが言った。僕は「ううん」と答えた。
「大切なんです、きみが」
僕の腕の中で、きみが僕の肩口に頭を預けた。僕は僕のできる精いっぱいの大切をこめて、「ミラ」ときみの名を呼んだ。するときみはゆるゆると首を横に振った。
「名前、呼ばなくていい」
ゆっくりとした呼吸が耳元に触れる。
「呼んでくれたの、うれしかったよ。ぼくは明日香先生のミラなんだって、思い出せたから。だからもういいんだ。ミラは先生と一緒に死んだの」
きみの手、腐りかけた手が、弱々しい力で僕の背中に回された。
「もう世界にふたりだけなんだもの。今だけは、おまえにとっての『きみ』でいてやる」
僕はきみを抱きしめる腕に力を込めた。隙間がなくなるくらい、ぴったりくっつくくらいきつく。だけどどれだけ抱きしめても僕の胸には「アルタイル」の形の穴が空いていて、きっときみもそう。こんなに近くにいるのに、僕らの穴は、お互いでは埋まらない。
それでも、胸をぎゅうぎゅう締めつけるこの痛いのも、やっっぱり本当なのだ。
「星が降ってくる」
きみが言った。僕は「はい」と答えた。たしかに、地上に降ってくる火の玉は星みたいだ。この世界を燃やし尽くす火。僕らを燃やす火。今度こそ、僕らは燃えて星になる。
「どうしよう。こわいや」
泣きそうに震えたきみの声。僕はきみの髪をなでた。
「そばにいます」
きみは「うん」と言った。そうして僕の肩に頬をすり寄せた。
僕だってこわくないと言えば嘘になる。でもこの「こわい」も、きみが僕にくれたこころだ。だから大切にしたかった。
世界はごうごうと燃えている。空から降る星が、地上の炎が世界を照らしてまるでどこか違う世界に来たかのようだった。今ならこの燃える惑星も、何億光年先の宇宙から見えるかもしれない。僕ら、ミラやヴェガや、アルタイルなんかから見えているだろうか。僕らがここにいたと、遠くの星は気づいただろうか。
ああ、でもきっと見えやしないな。だって宇宙はあんまり広すぎるから。だけどそれでよかった。だってきみがここにいると、僕だけは知っている。
音を立てて壊れていく世界にきみとふたりきり。痛む胸を持ちよって寄り添っている。こんな終末なら、悪くはないと思った。
終
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