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AIは指を描くのが苦手 じつは人間も指を描くのが苦手

AIは、指を描くのが苦手らしい


他のあらゆる分野と同様に、絵画・イラスト生成でもAIの躍進は目覚ましい。


つい先日も、AIの描いたイラストが話題になった。
イラストというか、感覚的にはCG画像ということになる。

AIイラスト生成技術で作られた、実在しないコスプレイヤーのイラストは、実写と見紛うほどのクオリティで、一部には「もうリアルのコスプレイヤーなんていらないじゃないか」なんていう声も上がった。

確かに、そのAIモデルの表情には一時期言われた「不気味の谷」なんていう違和感はまったくなく、魅力的なキャラクターが創造されている。

その笑顔、人を惹きつける表情は実在の人間を超えているかもしれないと思える。

ただ、現状では実写とAIイラストとを見分けるにはポイントがひとつあるらしい。

それが「指」だという。

顔や身体のラインなど、すぐに目のいくポイントに関してはAIは驚くほどクオリティの高いものを創り出せるが、イラストの構図によってはAIの弱点が現れる。

それが顕著なのが「指」の部分だ。
人物のポーズによってはAIはうまく指を構成することができず、ときとしてグロテスクな造形をしてしまうことがある。

AI生成イラストによる指の失敗例

これを見ると、指の造型に関しては、AIもまだ不十分なようである。

なぜAIは指が苦手なのか。

その原因には諸説あるようだが、やはり指を構成する骨や筋肉の複雑さにその理由があるようだ。

指はおもに基節骨、中節骨、末節骨という3つの骨からなっている。
そして一般に手骨と呼ばれる骨を細かく分類すると、片手だけで実に27種の骨が一体化して人間の手を形作っているのである。

しかも人物のポートレイトにおいては指がしっかり写っているものは少なく、AIの持つビッグデータ上でも数が不足している。

そうした難しい条件の中で人間の指を自然な形で造型するのは、さしものAIにとっても困難が伴うということだ。


ゴヤも指は書きたくなかった


しかし、「指」が苦手なのはとくにAIに限った話ではない。
他ならぬ人間も、指を描くことは苦手なのである。

ベラスケスと並ぶスペイン最大の画家、ゴヤも指を画くのには苦労した人間の一人である。

フランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828)は歴史上最後の肖像画家である。

後代の画家に、彼ほど肖像画つまりはポートレイトを描いた人間はいない。


なぜならば19世紀に入ると写真機なるものが生まれ、注文に応じて肖像画を描く絵師の需要は著しく減ってしまうからである。(19世紀前半、フランス人ダゲールが実用的な写真機を発明)

だが、まだ写真機の普及していないゴヤの時代、富裕階層にとって自分や家族の肖像を残したいという欲求は抑えがたいものだった。
それが肖像画の制作という画家への依頼につながった。

一方では芸術作品の高みを目指しながら、それでも毎日の生活の糧を得なければならない画家にとって、貴族や富裕商人からの肖像画の依頼はありがたいもので、注文があればありがたくそれに応じた。

肖像画の注文の数は膨大なもので、今に残されたゴヤの手による肖像画は、いちいち個別の作品に言及していられないほどの数に上る。

そして差し迫る依頼のなかで、ゴヤは肖像画の注文についてある注文をつける。
それが「指」の有無であった。

「指」を描くか、描かないか。

それが肖像画の制作費を決める重要なファクターとなっていった。
堀田善衛は長大な評論『ゴヤ』のなかでこう書いている。

なるというと、肖像画の値段の基準をきめねばならぬ。絵の大きさのことは言うまでもなく、その中身についてもまた。ゴヤは、中身についての基準を手に求めた。手というよりは指である。両手の指を全部描けという注文は、全身像、あるいは半身像であるとに拘らずもっとも値段の高いものとした。それは肖像画家たちのあいだでは珍しいことではなかった。

堀田善衛『ゴヤⅡ マドリード砂漠と緑』


ゴヤほどの大画家が、指を描くか描かないかによって肖像画の値段を決めていたとは、なんともせせこましい話である。

しかしそれだけ、指を細やかに描くことは大変だということだ。

結局のところ人間もAIも、人間を認識するのにはやはり「顔面」をとくに重視している。
肖像画から醸し出される人間性や、その人間が重ねてきた境遇も、やはりその顔の造形と表情に集約されるのである。

指に関しては、ゴヤとてそこまでの思い入れはなかったと思われる。

ちなみにゴヤは馬を描くのも苦手で、堀田善衛にはかなり辛辣なことを言われている。

次にもう一組の、今度は両者馬上姿の自画像である。これも前者同様に別にどうということもない、ベラスケスを模した凡作である。なんといってもゴヤは動物画が苦手である。王妃が跨乗をしている大きな馬は、頭部と臀部とでは別々の馬のようであり、ドールス氏などは「嘆かわしいことにソーセージだ」と言い出す始末である。

『ゴヤⅡ』475頁


確かにどの作品をを見ても、ゴヤの描く馬には躍動感がまるでなく、まるで牛かと見紛うほどにでっぷりとした腹回りをしている。

人間を描くときの、その人の本性を見透すかのような眼差しは、動物に関しては認められない。

試みに、ここにある騎乗の人物画を載せてみる。

Retrato ecuestre de Palafox (Museo del Prado)
ウマってこんなんだっけ…


堀田善衛の批評眼は狂いがない。
彼はゴヤの作品に関しても全てに迎合することなく、作品の巧拙を織り交ぜて批評できる確かな人物だった。

しかし絵画を評価するには、実際にその絵画を見てみるのが一番である。
芸術の価値を決めるのは、鑑賞者の眼である。

「ゴヤは馬を描くのがヘタ」

堀田の言うことが的を射ているかどうかは、皆さんの判断におまかせしたい。

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