自分を語るもの


自分、というもの。

リコーダーの穴、オカリナの穴
体の穴。お面の穴。
光が少し覗く黒い穴から私が見ている

私は幼い頃から自分がよくわからなかった。
ふと、幽体離脱したみたいに体と魂の形が混ざり会う感覚に襲われたり。異様に俯瞰的に自分を見下ろす自分がいる。ゲームをするように。キャラクターをプレイヤーが操作するように。自分自身が下した判断、選択で生きているはずなのに。
その実感がまるでなかった。自分が無意識に自分を操ってるのか、無意識に私が操られているのか、わからなかった。私は小学四年生まで、自分が酷く根暗で内気な少女だったのを覚えている。ある日高校生の女の子が陽気にクラスメイトと喋っている動画を見て、私は「これだ」と思い、次の日からその動画の女の子のように振る舞った。するとそれが大成功だったようで、みるみるうちに友達が増え,以前の友達からは「なんか明るくなった」と言われたのを覚えている。これは明らかに私の人間性に大きな印をつけた一つの出来事である。自分で"明るい自分"になるように自分を操っていたんだな。と歳を重ねるたびに思う


13になった私は(歌舞伎町の女王のリズムで)
自分の空虚感やアイデンティティの皆無さに対する反動からか学校で教えられることよりも哲学や心理学に対して、すこぶる魅せられるようになった。本を読み、youtubeで講義をみて、感じたこと得たこと全て自分のノートに書き込んだ。ソクラテスがどうのニーチェがどうのジークがムーンだとか。
ノートをどんどん埋めるボールペンの音,ノートを捲る音の数だけ知識が自分の中に蓄積していくような気がして私はひどく心地よくなり、さらに無我夢中に知識を求め続けた。そこで13歳の私はある仮説を見つけるのだ。


「そうか、私は自分のことも他のことも何も知らなかったから、自分のことも分からなかったんだ。」



13歳の私は腑に落ちる
そういうことか、私は何も知らなくてずっとぼーっとして生きてたんだ。だから、自分に対して
「自分はこうだよ」と言い聞かせることもできず生きてきたのか。という考えと今の自分の矛盾に気づくのだ。〇〇なんだから〇〇にちがいない、こうしなければ、こう振る舞わないとという檻に囚われる。そう思い込むことで本来の根暗な自分、無個性の自分に蓋をして自分にアイデンティティを見出したかった。本当はもっと優しい言葉を自分にかけたかった。言葉なんて必要ない。私は私なんだと。



根暗で個性がなくて本当は人に話しかけるのも億劫なのに友達を作るために明るい自分を演じた私。自分にアイデンティティを見出したくて
自分は特別だって確証が欲しかった。
こういう人間だ、って自分で胸を張って人に好かれたかった。悪いところもこういう人間だから仕方ないって許されたかった私。


海を見て感動すること、誰かを慈しむこと。
傷ついた心を休ませること、人を好きになること
虹で嬉しくなること、怒りに呑まれてしまうこと
天気によって左右される私たちのよわいこころ。
みんなほんとは全部わかってないんだろう。


なんで私は今悲しくて嬉しくて寂しくて愛しくて怒っててこんなに切ないのか。



自分のことなんてわからなくていいんだ
って気づいたのは16歳のとき。弱い心も偽る心も強がる心も考える心も愛する心も、傷つく心も
全部が全部私が作り上げた私なのだ。
もし、私の体が偽物でも私の魂は考え、傷つくことで日々成長しこの世に存在している。ざまあみろ。世界。





幼い私に足りないのは考えることより
自分のことを許す心だったのだ








この世界は
私がどう死のうが、私が考えて綴る事で私の証は1000年生きるのである
それは"私は私である"という証明なのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?