おにぎりを食べながら

お腹が空いて、眠れない。
部屋が熱くて、眠れない。
やり残したことがあって、眠れない。
寂しい気持ちを持て余して、眠れない。

ここ数日、Twitterと少し距離をとっている。
タイムラインを眺めていると、なんだか苦しくなって、ドクドクと黒い液体が身体の内側を満たしていくような感覚に囚われる。そんな日々が続いていた。雑多に流れてくる大量の情報に疲れつつも、知らなくちゃいけない情報や誰かの声が毎日湧いて出てくる気がして、どうしても吸い寄せられてしまう。
「見なくちゃ」「確認しなきゃ」の先に待っているのは、少し経ったら忘れてしまうような些末な問題や、なんとなく漂っている"負の空気"に揉まれ、必要のない疲れを感じるだけのときもあれば、シリアスすぎる現実を突きつけられ、部屋でひとり静かに折れてしまうこともある。
コロナ、政治、差別、低賃金、自殺。そんなワードが四六時中、いつでも。

それに、わたし自身の(Twitterの)使い方にも悩んでいた。
弱って感情的になってしまった自分が、負の気持ちを吐き出す場所として利用することは個人的に避けたかった。今までSNSをそういう目的で長年使ってきたからこそ、「もう卒業しよう」と思っていた。でも、どうしても甘えてしまう。
最初からそういう場所として利用するつもりの人々は、その旨をきちんとプロフィールに記載したり、鍵アカウントにして使っている。私はそういった配慮をしていないし、悲しみを癒やすための使い方はもう卒業する段階に来ていると思いながらも、時々ふと膜が破れてしまって、「誰か聞いてよ!」と、欲がだだ漏れてしまう。うーん、良くない。

それでも、Twitterでしか会えない人がいるし、感性や考え方に惹かれている幾人かの方たちの呟きをチェックするのが、日々の小さな楽しみだったりする。
日々感じていること、思っていることを言葉にしたら誰かの心にちょっとだけ刺さって、それに反応をもらえたらすごく嬉しい。
友達もできて、それは、本当に、嬉しいことだった。大丈夫かな、ちゃんと食べて眠っているかなと、夜になると特に、お友達の身を案じています。
昔からの友人とも、会えない日々の中で会話するかのように話せるのが楽しい。いつもLINE返せてなくてごめん(気づくの大抵夜中)。

わたしの好きな人とも、うっすら繋がっている気がしてる。「元気にしてるよ。こんなふうに過ごしてるよ。◯◯が美味しかったよ、◯◯が素敵だったよ」。こんなことを、本当はもっと話したいし、伝えたい。遠く離れた場所で頑張っている君に、信号を飛ばせる場所。
(そういえば、もう少しで好きな人の誕生日。今年は手紙を書いています。もしこの文章を読んでくれてたら、君が生まれた日に、またここに遊びに来てね。)

楽しかったこと、嬉しかったこと。素敵だったこと、綺麗なもの。悲しかったこと、苦しかったこと、傷ついたこと。
気持ちを共有するのって、人間にとって本当に大切なことだ。
誰かに認められたい気持ちも、気づいてほしい気持ちも、慰めてほしい気持ちも、恥ずかしいものなどではなく、とても、切実なものだ。
多分、だから苦しいのかもしれない。みんな本気で、流れてくる言葉は本音だから。大事な話だから。しかし、だからこそ上手に距離を取らないと、潰れてしまう。

自分が壊れないラインを知り、自分を守りながら、上手に使う。
自分の良識や思いやりの気持ち、想像力を働かせて。

アカウントを削除することも考えたけれど、せっかく知り合えた人たちとの、ゆるくも確かな繋がりを捨ててしまうのはあまりに悲しい。それに、すぐに壊して逃げるのも卒業したい。気分でブレてしまう自分を変えたい。そこまで考えて、もう少し続けてみることにした。
今はちょっと離れながら、自分にとって心地いい距離感、自分で納得できる使い方を模索している。課題。(この厳しさには、もちろん他の人たちの自由な使い方を非難するような意味合いは一切ないよ)

オアシスのリアム(ノエル?  どっちか分からない…)が歌ってた。「どこに行こうと、無駄話をしたくなったらすればいい」って。こういう何気ない歌詞に日々気付かされることがあるね。ギスギスして苦しい自分をつくっているのは、他でもない自分の考え方・捉え方かもしれない。オアシス最高だよなあ。前もどこかで言ったんだけれど、本当に音楽の力が必要なときは、レディオヘッドじゃなくてオアシスなんだ。

ひとつ言える確かなこと、それは「誰も悪くない」ってことだと思う。わたし自身も含めて。
タイミング、意思、求めていること、目的、価値観。すれ違いやぶつかり合いの原因は、相性が合わないだけなんじゃないかな。「どちらかが正しくて、どちらかが間違っている」という捉え方は息苦しい。そういう酸素の薄くなった空気から、抜け出したいね。
面白くてくだらなくて、ゆるーい話。楽しいよね。シリアスになることも必要だし、真剣に考えたり悩んだりすることも生きていくうえで避けられない。でも、たまに息を抜くことも大事。

ああ、そうか。ここまで書いて、分かった。
わたし、自分自身の生真面目さに疲れてたんだ。もちろん情報の量や内容にも参っていたけれど、その情報と向き合う態度は自分が選択している。「ひとつひとつと真面目に戦ってたら、死んじゃうよ」「丁寧すぎる。もう少しズルくなってごらん」、今までもらってきた助言の意味が、やっと分かった。

ちょっと気持ちが軽くなった。なるほど!という気持ち。今まではなんとなく分かっていたし、人に対しては「休まないと動けないよ…!」と当たり前のように言っていたのに、自分に対して言い聞かせられるほどには、腑に落ちてなかったのかも。でも、今回はちゃんと納得できた気がする。
息を抜くことは、一歩引くことは、不真面目とは違うんだ。怠けるとは、責任放棄とは、違う。

この文章を書いている間、どうしても空腹に耐えられず、おかかのおにぎりを食べてしまった。それも、結構大きいやつ。夜中の2時なのに。お腹すいてるときに作ると、欲張ってしまうね。

お腹いっぱいになったから眠る。これくらいじゃ太らないから大丈夫。安心して眠るよ。「寝る前に数行だけ書いて眠ろう」と思って書き始めたんだけどな。もう3時前だな。
眠たい頭で書いているから、文法とか間違ってるかもしれない。でも、眠る前に感じたこの気持ちをどうしても今日中に残したかった。おやすみ、おやすみ。

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