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戦時中の汽車の乗り方

上野駅から母は祖母に連れられて石川県に疎開に行くことになったのは前回書いた。

上野駅でも波乱の乗車が母を待っていた。空襲でのダイヤ乱れ、石炭の不足などで国鉄のダイヤはあってもないようなものであったらしい。この列車を乗り過ごすと次の列車はいつか分からない。意地でも乗らなくてはならない。それに子供連れの女性であったが祖母は勝気な人であった。

昔の客車は車両の両端にしか入り口とデッキがなくて入り口でもたついてしまうと列車には乗れないか、乗っても座るなんて不可能であった。祖母は入選してきた列車の客車の真ん中に母を連れていき、有無を言わさず開いていた窓から当時9歳の母を客車内に押し込んだそうだ。母は頭から客車の床に落ちた。痛がっている暇はなかった。なぜならその後に自分の母親が同じように乗り込み降ってきたからであった。昔の客車は皆四人対面のボックスシートである。シートとシートの間の床に母は落ちたわけで、さらに祖母が乗り込んできたわけであった。祖母は通りがかりの人に自分を押し込んでくれと頼んで無理やり乗り込んだとのこと(母談)。割り込み、ズルである。

おかげで祖母と母は石川に向かって座って出発したとのことであった。食糧事情が悪いので3日分の握り飯やら保存食、水筒を荷物のほかに持参していた、と母からは聞いている。上野から金沢まで24時間以上かかって到着した。着いた時には疲れ切って体が痛かったと母は言っていたが、目的地の門前町までは、七尾線(現のと鉄道)で穴水駅まで乗り継ぐのであった。

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