2009.06.21(Sun)以前の菊地さんへ

菊地さん、あれから色んな事があったよ。
お店の名前は変わったし、当時を知る人は殆ど出入りしないし、マイルドセブンはもうない。

いっつもAlanちゃんは天才だ、天才だ、と褒めてくれたけど、あれから14年経っても何も成せてないよ
結婚だってしてないし、お金もない
秀一さんは近くでミュージックバーみたいなのやってて時折すれ違うとき挨拶するよ
菊地さんが毎週末飲み歩いてたあの路地は綺麗な飲み屋だらけで週末になると若い人たちがたくさんいるよ(双葉さんはもう営業してないみたい)

去年だって、一昨年だって、この日は店を開けて誰か会いに来ないか待ってます。
まあ誰か来る訳もないんだけど。
毎年この日は菊地さんの顔じゃなくて手を思い出します。
酷いライブした後、舞台を降りた俺に真っ先に「最高じゃんかよ!Alanちゃん」といつも握手を求めてきたあのシワシワの手を思い出します。
もっと正確に言うと手の皺のテクスチャかな。

毎年写真をスタッフルームから出していつものやつとタバコをあげてるけど、14年も経ったら好みが変わる気がする。
でも今の菊地さんの好みがわからんから14年前とおんなじもん出しちゃうけど。
死ぬってどんな感じ?
スケスケになって壁すり抜けて移動が自由自在だったりする?
14年もそんなことやってたら飽きるか。

俺はね、三回忌の時に誰かが正義面して偉そうに言ってた「菊地さんはみんなの心の中にいる」的な考えが反吐が出るほど嫌いなのね。
アホかと、バカかと。
記憶の中の人間がみんなの中にいるなら小中高で何人心の中におんねん、って思う。
極めて個人的な考えだけど、俺は“場所”にいると思ってる。
地球は時速1,500kmで自転して時速110,000kmで公転してるんだって。
だから厳密に言えば生きてようが死んでようが1秒だって“同じ場所”に存在する事はあり得ないんだけども、この趣味の悪いCFの床の入り口とペンキが剥がれてるホールと微妙に低い舞台の“この場所”は確かに菊地さんがいた場所で。
全然うまく言えないんだけども、少なくとも俺は心の中なんて曖昧なところじゃなくて(そもそも心の中じゃなくて海馬だろ)、“この場所”にこそ人の記憶が詰まっている気がするんだよね。
だからどんな手段を使ってもここから離れず墓守をしている、と言うとロマンチック過ぎか。
でもそんな感じです。

葬儀は生きてる人のためってたまに聞くけど、どうなんだろうね
生きてる人のエゴでしかないなら合理性という人類の叡智に駆逐されないのは何故なんだろうか
2009年6月23日に秀一さんから亡くなったことが突然伝えられて、それからみんなでお別れ会して、大変だった
会えなくなって寂しいけど、あの時ほど今は悲しくはない
ただ、すごく寂しいけど

また来年までスタッフルームの殺風景な壁でお待ち頂いちゃうけど、ごめんね。
来年もこの場所の墓守でいられたらいいなあ
俺は俺なりに菊地さんを思い出してこの日を過ごしてます


しかもよくよく考えたらハーパーじゃなくて今はトリスだったわ。ごめんね菊地さん




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