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2月読んだもの観たもの

エドゥアルド・メンドサ『グルブ消息不明』
小説。チューロ食べ過ぎ宇宙人ちゃんだった。ラブレターがおもしろい。ひひ。
(たぶんでもこれは、リアルタイムでバルセロナに住んで読んでたらめちゃくちゃ面白いのだと思う)

滝口悠生『長い一日』
小説。エッセイから小説に滑り込んでいく瞬間がよくわかる。小説に滑り込んでいくと、夫と妻、とその名が呼称されるようになり、三人称で神の視点での語りになるのだが、しかし夫、妻、という呼び名を使うと視点が妻側からのものや夫側からのものにゆらゆらと浮遊する感じがあり、人が移ると人称も窓目くんの一人称になったりしていてずっと揺れている。面白い。
章の切り替わりも不思議で面白く、同じシークエンスだけれど、印象的な方法でカメラの位置がふっと変わったような感覚を得る。
引っ越したばかりで、人と暮らし始めたばかりなので、面白く読めているなという感じもあり、今読んで良かったわ、と思う。
長い期間を経て得た愛着の果てしない時間の感覚を読むことでじんわり滲むように感じることができて、すごいな、やっぱりと思う。とてつもなく長く書くことで読者にそれに付き合わせるのではなく、記憶の表現がさまざまに現れることでそれが読んでいるうちに体感的に理解される。
現実では『ラーメンカレー』が出たばかりで、文學界で窓目君と滝口悠生の対談が掲載されており、ふっと、気が付いたのだが、『死んでいないもの』の中に、天麩羅ちゃんけり子ちゃん夫婦が出てきていた。

アトランタ シーズン3
ドラマ。シーズン1より好きかもしれない。シーズン4などを家人が観ているのをチラ見しつつ、どこからでも観られるよ、と言われたとて、途中から観ていると明らかに足りない情報があるのがわかり、流石にシーズン1から順に観た方がいいに決まってるだろ、という感覚を得て、先日シーズン1を観ていたのだが、そうしておいてよかった〜と、シーズン3を観ながら思った。2は飛ばしてしまっているが、1を観ていれば確かに3以降は好きな順で観られる感じはある。説明の少ないドラマとはいえ、というかだからこそ、ちゃんと設計されているので、作品の導入にあたる部分は先に観た方が良い。初回はなるべく万全の形で、の欲求の問題。
しかし、シーズン3の1話目、すごく面白かったんだけど、事前に避けられない形でネタバレを喰らってしまっていて、見る前から、あれ多分ネタバレだったよなとちょっとぷりぷりしてたのが、かなり1話目が面白かっただけに、観ている最中にネタバレの無念さが募り虚しくなった。まあしょうがないけど。でも、良い作品を一番良い状態で楽しめなかったのが悔しい。でも面白かった。良いものはいい。

『わが町』
演劇。距離を取るための人形、人形じゃなかったら一幕は結構観られなかったと思うので、よかったな、と思った。あと人形につき一人ではなく、人が交換可能だったのも一幕の演出として辛くならずに観られてよかったのではと思う(人形の中身の性が固定されると、確実に現代の上演としてはきつかった)。二幕は、うーん、って感じで、映像のゾーン、もう少しわざとらしくやってよかったんでは〜と思いつつ、そこは人の笑いの匙加減もある……と思う(その匙加減で伝わるものが変わってしまう)。個人的には一幕、三幕のトーンで二幕をやった方が、逆に現代で上演してやる形としてよかったんでは、と思いつつ、インタビュー読みながら、東京についてやるというのが先にあったのか〜とも思う(けど二幕はやっぱり良くなかったと思う)。
三幕は結構好きで、死者を複数人にする演出は上演の迫力としてのやり方で、それ以外の理由ってあるだろうかというのがぼんやりいまいちに感じたが(一幕や二幕の一つの役を複数人でやるというルールがそのまま敷衍されてるのでそこまで違和感はない)、元のテーマが好きだったのでしんみりした。唱和、もう少し揃っていた方が何を言っているか聞き取りやすいな、とは思うが、死者が生者の時間に干渉できない感じもあれで結構出ると思うし、ああいう迫力に押されたくて演劇観るというのもあるので、押し流されながら観る。あくまであの四角い枠の中の演技は一幕と変わらず、あのライティングで逆説的にその日常性が際立つし、一幕でも繰り返されている朝のシーンで、はまっていたと思う。
でも三幕が際立つためには、二幕がハレとしてとてもいいものに感じられる必要があっただろうと思っていて、それによって三幕においてどの瞬間に戻るかという選択が意味を持ち、一幕で仕込まれていたものが三幕で意味を成すと思うので、二幕がな〜、と、やっぱり思った。
あれだとやっぱり結婚、ないし結婚式というものそのものを現代においてそんなにサイコー!と思っていない観客が観ると、人生の幸せな時間や重要な時間として受容しにくい。しかし、元の脚本から外れずに現代とも接触させて作るとなると、その問題を乗り越えるのはかなり難しい気がする。結婚式というものを差してそれを、こんな幸せ他にはないね!と言い切るのは、現代では納得のいく形で作ることができないので。
セリフから窺い知るに、元の戯曲と元の時代においても、結婚式がオールハッピーなものではなく、なんだかんだ嫌なこととか、辛抱が多くて……という雰囲気もなくはないのでは、と思ったので、死者の視点からそれを照らしてみる、という時に、だがしかしその尊さは否定できない、という形の可能性の方に重みを寄せて、演出したほうが良かったのかも、なのか。元の戯曲、読んでないのでそこまでは分からず。

『わが星』
演劇。『わが町』観たので、DVDでみなおした。結構記憶や経験として思い出深い作品なので、見直したくないな〜〜という気持ちもあり、見直しながらやっぱり好きなところと、ちょっぴりそうでないところとある、と思った。
でもやっぱりわたしにとっては大切な作品ではある。

ヤマシタトモコ『違国日記』⑩
漫画。いつも通りに良いですが、9巻の方が好きだったような記憶がありつつ、一つ前の話どんなだったかしらん?と、思う。
時折挟まる大人の朝の視点により、ふっと息を継ぐ。
毎度のことながら、過去ショットの割り込み方や空間の移動の仕方が面白い。

サルバドール・プラセンシア『紙の民』
小説。Instagramでみかけて買ったが、最高チョイスだった。カシュニッツの短篇に引き続き、あまり関連性のないところからぐいっと当たりを引いて、ラッキー気味である。元からどちらかというとその方向で嗜むものを増やしてきた傾向があるが、それにしても冴えてる。家に届いて、ひとかじりしたらものすごく良く、その時の読む欲求がぐわ、と開く感じが当たりを引いたときのそれで良い。めちゃいいよ!と声をかけたら家人が集中して読み始めたので、読み終わるのを待ってから読むことにした。
と、読み終わってから手をつけたもののなんとなく読み始めのバイブスが消えてしまい、一旦途中まで置いて寝かせてる。

オクティヴィア・E・バトラー『血を分けた子ども』
小説。めっっっちゃすきだな!
ひっ!となるような緊張感がずっとある。それから細部に満ちた怒りや不快感。長編くらいのペースで進む時間軸だが、緊張感に始まり緊張感で終わる感じは短篇らしい面白さ、と一つ目を読んだ時に思ったが、最後の方まで読んでいくと長篇においても作品全体にこれを行き渡らせることができるんだろうという感じがした。こういう強い感情に満ちた物語は、目が離すことができなくて魅入られてしまう。かっこいい。
聖書を下敷きにしている部分もかなりあるみたいで、その辺の素養がないのが少し悲しい。それがわかればより楽しめる部分があるだろうと思う。
とにかく、このパワフルさと怨念のようなものがとても好きだとわかった。

オクティヴィア・E・バトラー『キンドレッド』
小説。物語る主題と建てつけは、かなり安直な組み合わせと言える。『血を分けた子ども』のほうがおもしろいなとおもっているけど、途中までしか読んでいないので、この先最後まで読んだら違うか。

地点『騒音。見えているのに見えない。見えてなくても見ている!』
演劇。イェリネクのコロナを経て書かれた戯曲を元にした上演。地点、もっと面白い時あるので、今回はちょっとイマイチだったな〜〜という感じ。
しかし、地点って良かった時は圧倒されてなんかすごく良かった!という感じだからなのか、微妙に感じたなという時も何が微妙だったのかをうまく説明できない。練度の問題とかもあるのかもな〜とか、座った位置がもう少し高い位置の席だったら良かったかもな〜などなど。セリフが結構重要だったと思うけど、それがうまくゴロンと頭の中に響いて繋がるということがなくて、解けてしまったのが大きかったかもしれない。
なので、元のイェリネクの戯曲読んでから観たほうが、今回に限っては面白かったのかも、と思う。

Mrs.fictions presents『15 Minutes Made in本多劇場』
演劇。ジェットコースターみたいだった。というのは、1つ1つの演目のトーンが全く違ったので前半青ざめていたのだが、後半はまた全然違くて、そのトーンや練度の違いにあひゃ〜〜と目を回していた。
三本目の時、久々に劇場でこんなに逃げられない……という気持ちになったな……と思ってしまった。
五本目は割と好みで、服装と髪型とか、ちょうどハマるな〜と思ってみていた。六本目は好みではないけど、パッケージとしての完成度が高いのでみていて面白いなーという感じで、始まったところからこれはどうやら…、とトーンが若干崩され、メタが表に出るまで、の流れが15分の時間配分としてずっと楽しめた。

古井由吉『蜩の声』
小説。おや、読んだことあるな…と思って読み始めるが途中でまだらに記憶がなくなり、読んでいないゾーンに入った。
古井由吉の作品はどれも確実に古井由吉の雰囲気を纏っていて、主題もおおよそ男女のことや老年の身体、生死についてという塩梅だが、体感している空気感や風景は概して作品ごとできちんと異なる感覚があり、どの作品の記憶かが後からきちんと判別がつくのが面白い。
この連作短編は連作ではないのではというくらい毎回トーンが違うが、各話の形式は毎度古井由吉個人の感覚から手繰り寄せられて遠くに行くスタイルをとっていて、読書会で五感について、や、時間や場所を移動していくスタイルについて話をして面白かった。
やっぱり最後の「子供の行方」が、わぁ、という感じで、ここだけでも読み込むと色々わかって面白い。細かく、事実と創作の揺らぎがある。

『ノーカントリー』
映画。見直した。めちゃめちゃいい。音楽全然ないんだな、っていうのと、あとやっぱりあの奥さんのシーンがものすごく話の流れとしてキーとなるシーンなんだけど、すっげえいいよな!!と思った(これは、しかし原作の采配な気がするけども)。あと、牛乳とテレビのショット。
やっぱり、映画見る時はどんな形であれ、こういう緊張感がずっとあるものが最高と思う。ノーカントリーは、あまりにも優雅にそれができててすんげえ。全く音楽がないこともだし、最低限の説明とセリフと、ショットのかっこよさと、何よりシガーの異物感。
あと、突然さとか突飛さがユーモアを持つということや、自分がそれを好むのはそうなんだけど、笑えると感じられないくらい行き過ぎているのがやっぱり一番いいよな!と再確認した。緊張と突き抜けたヤバさによるド緊張による緩和の破れた笑いが最高。
めちゃめちゃ良かった〜。

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