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予めやってくる未来

 定期的に文章を書くのをやめてから、大きな時間の中にいる自分というよりかは、ただその瞬間にいる自分の感覚が強くなったように思う。あまり後先考えたり、自分の現在地が大きなところから見てどの辺にあるのかみたいなことを考える機会が減った。
 今日、大学のゼミの友達で役者をやっている川久保ちゃんの『オッケイ』を観て久々に人生のことを思い出した。自分の人生のことを考えてああしようかなこうしようかなみたいな選択を直近していないというわけでもないのだけれど(というか転職するので最近したばっかりではあるが)演劇の中で流れるそれこそ走馬灯のような時間の過ぎ方を前にして、その時間が吹き荒ぶ勢いで目がふっと覚めるような感覚になった。

 劇は『学生』と『27歳』と『オトナ』の3本立てで、『学生』は2021年のAPOC FESで小林さんとして、『27歳』は2020年のAPOC FESで『25歳』として観た。あの頃はちょうどコロナだったな、とか、仕事あんな感じだったな、とか、あれこれ思いながら観た。『学生』はおばさんが高校受験の面接をする話で、おばさんがおばさんであるが故に面接の最中にそれを面接官に笑われたりして、その高校生になる、という強くまっすぐな気持ちが、世間に晒された時にあまりにもちっぽけで珍妙に受け取られた時の寂しさがそこにありありとあって、悔しいような悲しいような気持ちになる。割とどうにもそういう悔しさや悲しさとは、最近は無縁なのだけれど、どこからかそういう感情が掘り起こされてじくじくふつふつと小林さんの気持ちになった3年前のことを思い出して悲しくなった。
 『27歳』は、最初に観た時のショックのことを思い出しながら観ていた。くすくすと笑いながらも、自分の毎日が辛い時にその辛さを見てみないふりをしてなんとかやり過ごす時の感覚や、その行為自体の辛さをじんわり思い出した。
 『オトナ』は自分の家族のことを考えながら観た。迷子センターに来た子供が主人公なのだけれど、その子供役というのが、ほんと子供ってこういうこと言うんだよなぁとか、こういう身振りをするんだよなぁという動きをしていて、それがまず面白かった。そして、世代の上下に広がる時間の、祖父母、父母、わたし、のことを考えて『学生』のときの長い時間の回転とはまた違う時間の広がりを感じた。こういう時間の流れの中で自分の人生のことを考えると、自分がこれからこうしてやるのだ、みたいな漲る感覚とかとはまた違った、積み重なった時間を後から振り返ることでしか感じられない寂しさみたいなものを感じる。これから先の人生を先取りして覗き見てしまったような感じがして、『わたしの人生の物語』とか『あまたの星、宝冠のごとく』の「もどれ、過去へもどれ」とか、SFの切ない時間の過ぎ方を感じた。

 転職前の有休消化期間のはずなのだが、全く引き継ぎが終わらず今日もトラブルに見舞われたため、休みのはずだったのが働く必要に迫られ、川久保ちゃんへの挨拶もそこそこに出てきてしまったが、帰りの電車に揺られながら、シンプルにすごくかっこよかったな〜〜、と思った。何度も、彼女の瞳がまんまるに見開かれその中に照明の光が映り込むのを観て、じわじわとその気持ちが沁み入っていた。
 観ることに体力を使い果たしたようで、今日はとても疲れて家に帰った。

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