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丸い机を一緒に囲んで

もしかしたら演劇って、一緒の空間で上演を観たら、観た人みんな同じ釜の飯を食ったみたいな感じじゃないかな〜、とにやにやしていて、たぶんそれは、たぶんちょっと言い過ぎかもと思うけれど、『とぶ』を観てたのしうれしい気持ちになったのは、一緒に中華料理の丸テーブルを囲んで、ぐるぐる回すようなたのしうれしさみたいだという気になった。

先週ロロのいつ高シリーズファイナル2本立ての『とぶ』の中で、同じものを見るんだよ、みたいなセリフに脳天ぶち抜かれてしまった。もう、記憶が曖昧なので、細かい部分の正確性は絶対的に足りないと思うが、見えないけれど、同じものを複数人で観るという行為にぶち抜かれたのである。空っぽの空間に、フィクションが充満していくのが感じられてわくわくした。
感想を記録していたらむくむくしてきたので、たくさん書いちゃおう、と思ったので、書いてみる。
(観ていない人は、7月末までの配信があるので……! おすすめ…!)

初めていつ高シリーズを観た時、上演前に観客の前で上演の準備をしていくんだ、おもしろ〜〜と思った。演劇未経験者のわたしは「しず」という単語を、このシリーズを何回か観て覚えた。「しず置きまーす」と言いながら設置しているのを見て、どうやらものを固定するためのおもしのことを「しず」と呼ぶらしい、と思った。
まっさらな舞台の上に、さまざまなものを設置していくことで、空間ができていくのだというそのこと自体が不思議でおもしろい。

ファイナル2本立て1本目の『ほつれる水面で縫われたぐるみ』は、プールが舞台で、セットがめちゃくちゃでかい。シャッターを開け始めた時点で、なんだなんだ、という感じがものすごいのだけれど、そこからプールの壁がごおおぉんと出てくるのである。組まれるだけで、めっちゃプールじゃん、という感じが満載。
たくさんのゴミ袋やガラクタも設置される。これもあれも、まごうことなきゴミに見えるけれど、ゴミに見せるために誰かがこれを作ったのである、と思いながら、ゴミのディティールを想像して、ゴミらしいゴミを作るという作業に思いを馳せる。学校のガラクタに、謎のポリタンク、あるよね〜〜と思う。

それに対して2本目の『とぶ』は開演前の設置はなくて、まっさらな舞台から始まる。冒頭は将門と群青が、机を運び込むシーン。
作品の外にある行為を作品の中に飲み込ませているのである。2人は映画を撮るために、机を運んでいく。机を運ぶという行為は、学生時代の象徴みたいで、しかも、教室以外のところに持ってくるって、すごく文化祭みたいでたのしい。
作中で、いつものいつ高のように舞台が完成していく。

この後も、窓枠、カーテン、扇風機と、順番にものが運び込まれてくる。その都度、舞台の見え方は少しずつ変わっていく。ただの空間が、学校の教室のように見えてくる。
舞台の奥手に置いてあった窓枠が、観客の目を遮るように観客席と舞台の間に置かれた時に、がらりと見える世界が変わり、扇風機と照明も相まって、そこは急に100%密度のドラマチックなフィクション空間になるのである。

しかも、それらの変化は作中のキャラクターたちとも共有されている変化なのだ。太郎と将門は映画を撮るために、体育館の舞台上を教室に作り替えているから。彼らはそのために、舞台(体育館)の上に色々なものを配置していくのである。
観客も、彼らと同じように、舞台(吉祥寺シアター(体育館))の上に色々なものが配置され、学校の教室になっていくのを観ている。

その観客と作中キャラクターの状態はまさしく、サイキック運動部なのである(サイキック運動部の語感が最高すぎて、終わった後連呼した)。机を運び込むのを手伝っていた群青の所属部活である。
群青のサイキック総合格闘技のプレーを観ながら、爆笑したけれど、太郎と群青、そして将門も参加のサイキックバスケでもっと爆笑した。
ヴオン、と太郎の手元で増えたボールを観て笑い転げたし、宙に浮くボールをみんなで見上げたのである。見えない敵も、見えないボールも、みんなで観たのである。
見えない夜の教室も、見えない昼間の教室も、窓枠の向こう側に観たのである。

そして何より、それはみんなが同じように観る、と思えないものを観るから、素敵なのである。
タイトルになっている「とぶ」は、シューマイが思ったより「とぶ」のとぶでもあると思うのだけれど、みんなはまさかシューマイが「とぶ」とは思っていない。これまでのいつ高を観ていた人も思っていない。でもシューマイはものすごくとぶ。そういう意外さというのが「みんなと同じものを観る」の裏側にある。

群青は◯◯道をやっていると思ったらサイキック運動部だった、群青は寡黙な男だと思ってたら中学ではおてんばだった、群青は母親のことをママと呼ぶ……みたいな、意外な事実が、作品の中には散りばめられている。
フィクションは、みんなが知っている当たり前のことを喚起させて、当たり前に見せるものではなくて、意外で想像にもつかないことを、みんなで想像することによって観ることができるものなのである。
常識などではない、別のフィルターを同じ作品を鑑賞している人たちと共有するのである。不思議な空間。

それはなんとなく、食卓を共にして、同じ食べ物を食べ、一緒にくるくると円卓を回転させるような、楽しい食事のようだなぁと思って、楽しかったなぁと思ったのでした。

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