闇はあやなし

 夜、仕事の帰りにK駅の改札を出たところでハル君に出会う。コンビニでお酒と煙草を買って公園で花見をすることにした。わたしたちはなだらかな斜面に植わった一本の桜の木の下に落ち着くことにした。コンビニのビニール袋をお尻の下に敷いて、根っこのところに座った。

「びっくりした。ひさしぶりだね、いつぶりかなあ。っていうか髪の毛伸びすぎじゃない?目立ってた」
「どこまで伸ばせるか試してる。アコちゃんって夢かと思ってた」
 思い出と夢はよく似ているから、時々間違えるんだ、とハル君は笑った。
「わたしのまわりの人たちは、だいたいハイライトかピースを吸っている」
「アコちゃんは、ろくでもないやつばっかりと付き合ってるんだね」
「その、ろくでもないやつの中にハル君も入っているわけだけれども」

 ニーナちゃんと当時のニーナちゃんの彼氏とニーナちゃんの家でお酒を飲んでいた。その時にニーナちゃんの彼氏が呼んだのがハル君だった。零時をとっくにまわっていて、三人ともそれなりに酔っていて、いいちこをぬるい水で薄く割って飲んでいた。下町のナポレオンって何なんだよ。そんな時間に、そんなわたしたちのところに来たハル君は、病棟の夜勤のあとの睡眠から起きたところで、素面なのに目が座っていて、肩下まで伸びた髪の毛はゴワゴワしていた。これまでの人生では関わってこなかった種類の人だなというのが第一印象だった。

 缶チューハイのプルタブを引いて、缶をカチンと打ち付けて何ともなく乾杯をした。やわらかい夜風が吹いて頬がひんやりとする。冷たくて強い炭酸が喉をさして胃に流れ込んでいく。瞬間、火がついたように胃があたたまる。

 あの頃ハル君はH町に住んでいて、M市の精神科の病院で働いていたけれど、それは今も変わらないようで、今も彼は同じ場所に住み続け、同じ仕事を続けていた。モエちゃんとも付き合い続けていた。モエちゃんとはインスタで繋がっているけれど、腰に入れたDate Paintingのタトゥーや、明け方にゴミ捨て場でゴミをあさるカラスや、熱で溶けた赤や緑のソフビ人形をあげていて、恋人のことを匂わせるような写真を元々投稿しない子だったので、ハル君と続いているとは知らなかった。

 ハル君みたいな人が長く同じ場所に住み、長く同じ職場で働き、長く同じ女の子と付き合っているのは本当に不思議だ。ありえない。
「わたしなんて、半年家に置いた男の人、脱衣所びしょびしょにするのががまんならなくて、先週追い出しちゃったばかりだよ。」
 わたしがそう言うと、ハル君は目線を斜め上にやって少し何かを考えてから、リュックからジップロックを取り出し、赤いグミを何粒か口に放り込んで噛んで飲み下した。それから缶の飲み口を見つめながら言った。
「俺は掃除機のフィルターの中を猛スピードで舞うチリの中に鎮座しているんだ、周りの環境や人はすごい速さで動き続けている、チリなんだ」
「じゃあわたしもチリなの?埃なの?」
「うーん、アコちゃんもチリだけど、壁と床の境目にたまってて掃除機で吸いにくいやつっぽい」
「吸ってもらえなきゃフィルターの中で舞えないじゃん」

 こないだS町のカフェでレアチーズとアイスコーヒーを注文した。そうしたら、そのレアチーズの土台がとんでもなくかたく、ナイフを入れるのになかなか苦労した。真剣に、かつ周囲に必死さを悟られないよう冷静に食べ進めていく中で、昔、ある男にほめられたことを思い出した。
「ナイフとフォークの使い方が上手だねって、いちごタルトをきれいに食べるねってわたしに言ったことある?」
「うーん、ないんじゃないかな」
「アコちゃんみたいに食べ方がきれいな女の子ってあんまりいないなあって言われたの。誰と比べてるんだろうって思って、お皿の上ぐしゃぐしゃにしたくなった」
「でも、誰かは覚えてないんだ」
「言われたこと、思ったことは覚えてるのにね」
「アコちゃんは俺と違って、男の入れ替わりが激しいからなあ」
「その点ではハル君のこと尊敬する」
 お皿の上にタルトの屑を少しちらしただけで、わたしはきれいに食べ終えた。あのあと男に何て返したんだろう。結局、誰だったんだろう。

 眠れない夜というものが昔わたしにはあって、そういう夜にはピアスを開けることがあった。それで、一時期は両耳で十個あいていたりした。次にピアスを開けたくなったら俺の耳にしなよ、と言われて、ハル君の左の耳たぶにピアスの穴を三つ開けてやった。ハル君の耳たぶは薄くて十分な大きさがあってやりやすかった。開けたあとは、あの、ダッフルコートの角みたいなボタンに似てる拡張器をどんどん入れていって、上から2G、0G、00Gのピアスホールを完成させた。今振り返れば、割と無茶なペースで穴を広げたものだ。リボンを結んだりサングラスをひっかけたりして遊んだ。

 いつか、こんな穴ぼこな耳の看護師こわいんだけど、と言ったら、アコちゃんだってその耳で先生やってんじゃん、そっちのほうがもっとこわくて信じられない、と言われてそれも確かだなと思った。人は何かの出来事に出会うと、いいか悪いかとか、好きか嫌いかとか、そういうことを瞬時に判断してしまう。他者の存在は同時に、それとは異なる私たちの姿を浮かび上がらせる。三つの空洞を左耳に持つ看護師と、両耳にいくつものしこりを持つ高校教師。こわい人間といえば、刑務官の知り合いも、精神科病院で働くハル君も、夜勤の時の見回りで暗い廊下を歩く時、一番怖いのは気が触れた人間だと言っていた。

 夜は色を留め置く。池は黒く、桜は白い。昼間に持っている色をすべて奪って夜は暗さを増す。夜は動きを緩慢にする。たまに吹く夜風にやや遅れて水面が波打ち、木々が揺れる。いろいろなことやものが少しずつズレる、ブレる。うまく感じとることができない。少し歩くことにした。人気と車が少なくなった街を歩くのは気持ちがすっきりする。腕を広げて歩いてみると、皮膚に空気がぴったりと吸い付く感覚がした。さっき感じたズレを修正したんだ。

「バスがなくなっちゃったときとかに歩くけど、いつも道がわかんない。酔ってるのもあるかも。そんなことある?」
「色がないから、昼間に目印にしているものが見えなくなるからだよ。目印も何もとっぱらった夜の道が、本当の道だ」
 見知っている街のはずだけれど、夜になると途端に道がわからなくなる。行き先って自分で決められるんだっけ。

 苦手なにおいがした。ふと灯り、コインランドリー特有のキッチュなあのにおい。何の恨みも思い出もないけれど、ただ単にいやだな、と思う。こういうことがあった。いやだった。誰かにこういうことをされた。いやだった。何もないのに、いやだ、と思わせるコインランドリーのにおいよ。

 ハル君と初めて会ったとき、最後に会ったとき、それから何かが変わったり成長したりしたような気もするし、ぐるりとして同じ場所に戻ってきたような気もする。ハル君は髪の毛がばさばさと伸びて、わたしは薬をいくつも飲まなくて済むようになったけど、それで違う人間になったかというと、そういうわけではない。大丈夫、君はこのままで大丈夫。そういうこと、もう考えないようにしてるの、奥のほうに押し込んで、出てこないようにしてるの。それなら大丈夫だね。どうしてそんなことが言えるの。きっと大丈夫だ。大丈夫です。何もいらない、誰にも何も願わない。選ばなかった未来のその先が見たかったなんてもう言いたくないの。選ばれなかった選択肢も含めたまるごとが今の君だから、すべて大丈夫になるよ。

 何もはじまらないし、何も終わらない夜。





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