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そういえば、イトンジ

長いエスカレーターで登った大阪フェスティバルホールの1階席、扉を潜り入るとそこには真っ白な洋風の家が建っていた。その家には白のドレスコードに身を包み、目元を仮面で隠した存在。住人と呼ぶよりも、「先客」と呼ぶが相応しい気がする。
戯れ程度に会話を楽しむような口元、ソファに座る者、家の外で電灯に背を預ける者。そのどれもが、その全ては、外界よりもゆったりと流れた時間に漂うようにゆっくりと流れていく。

見覚えのある姿も目元を仮面に覆わせて部屋の隅で楽器たちへ手を伸ばす。時空が歪むように一段とスローになる。此処では無い何処かに、私も居たのだろう、はっきりとゆっくりとした心臓の音を感じる。とんでもないものを観てしまうんだと、始まって直ぐに思った。とんでもない、とんでもない、生まれてしまった違和感が怖くて拭いたい。お願いだからギターを手に取って、いつもみたいにマイクを手にして、三人が真っ直ぐ並んだ綺麗な形を見せて欲しいと思った。
これはFCに向けられた、私たちのための、私たちだけの作品。それなのにとてもじゃなく寂しかった。大森元貴の独壇場と呼べてしまう。私には確かにそうだった。ソロの作品かと思うほど、大森元貴の子らで出来上がった大森元貴の作品。そうなってしまう気がして怖かった。なんで?なんで?あとその「わがままはおわるから」って何?答えてよ、この先のこと何も覚えられないよ。この1曲目で私のイトンジ終了だよ。と狼狽したのでこのザマだ。
この後の記憶等、メモが無ければ殆ど覚えていないのだ。「サスペンダ〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!」ちゃうねん、サスペンダー大好きだし、くるくる踊ってくれるからバックショット多めで嬉しかったけどそんなことを書き残すために原稿用紙とペンを持ち込んだんじゃない。サスペンダーについて3回も書くな、一度で分かるだろうが。「ムーンウォーク」とも書いてある。してた気がする。近過ぎて見えない。

衣装がとても好きだった。
美しかった。白いアイラインが可愛かった。
大森元貴のお顔が近くで見られてとても幸せだった。何故なら顔が好きだから。こんなに綺麗な人を見たことがない。こんなに美しい人間は私にはこの人しか居ない。

さあ、何から書こうか。
「賛否」という言葉を胸に置いていたから、分かりやすく今までに無い見方になる。
何が賛で何が否に成りうるのだろうか。
だからこそ二人が部屋の隅で楽器を鳴らすこと、大森ばかりを照明が追うこと、気持ちが追い付かない。大森贔屓?とんでもない。大森元貴を愛する気持ちとMrs. GREEN APPLEの大森元貴を愛する気持ちは私の中で異なる軸だ。Mrs. GREEN APPLEの作品において、狂おしい程に目を奪うのが大森元貴であっても、私は二人が何よりも愛おしく大森を見つめる表情を見逃したくないと思っているし、何度もその優しい顔を見つめてきた。
で、何故その二人が部屋の隅、いやわかる。そういう設定なので、そういう物語なので。落ち着いて、悲しいからと怒りに転換しないで。寂しさを武器にしないで。
その男は何処から来たか分からないらしい。手荷物は少なくトランクひとつ、衣装から考えるにはおめかしをしてお出かけをしたのか、コンサート帰りのような。
何処から来たのか分からずともその音に身体は舞うことができる。そうあることが彼の日常であるかのように。お尻ぷりぷりだなおい。あいくるしい。

未発表曲の後、彼が口にするのは「folktale」。テーブルで向き合うように座って繰り広げられるダンスは会話そのものだ。部屋の中を歩き回り読み聞かせるように開いた本には何が書いてあったろうか。

ネクタイを緩め冷蔵庫を開けて飲み物とグラスを取り出す、荒く緩められたネクタイ、どこか気持ちが荒んでいるのだろうか。飲みかけをそのまま冷蔵庫へと戻す。飲みかけを?と思った。これが夢の中だと言うのなら、そんなおかしな行動もおかしくないような、それとも彼には日常だろうか。

ネクタイを直し、右奥の書斎のような部屋でタイプライターの前へ腰掛ける。紡がれた「君を知らない」のダンスは何とも言えない切なさと原曲やUtopiaから感じる寂しさはまた少し違う。書き終えた手紙を掴んだ手は右へ左へ、リビングルームへと足を運ぶ。届けたい彼女には届かず身体が入れ違う。舞い散る手紙、それを手にして彼は両肘をテーブルに付くようにして座る。満足気とも取れる彼の表情は穏やかで、視線には人を想う安らぎが灯っているようだった。曲の最後、額を寄せたのか、唇を寄せたのか、「あいしてる」と言わんばかりの緩んだ目元が忘れられない。本当に歌っていたか?と思うほど、その表情や踊っている様子ばかりが思い出される。その歌声に惚れ込んだはずだろうに、どうしたものか。あれだけ動いても声のブレが少ないことや、その身体表現全てを持って曲を人の形を持って生まれさせること。それが彼に惹かれた一番の理由であろうに。

「幸せが逃げるわよ」という誰かの言葉に、頷く彼は「ダンスホール」を歌う。
どの曲よりも寂しかった。始まりはひとりぼっちだった。きらめく世界ではなく、太陽を見失ったかのように、さびしかった。そこから二人が躍り出てくることにやっと冒頭からの胸のつかえが少しほぐれたように思う。グラスに注がれる赤ワインがコーラに思えて微笑ましいくらい、いつものような楽しいダンスホールへと変わっていく。椅子からテーブルの上へ立つノリノリのいつもの楽しいダンスホールだった。うきうき。やっとだ。うきうき。テーブルからステージへ彼が降りても音は静かだった。着地がうつくしい。

楽しげなディナーを終え、テーブルたちがはけて行く。彼らの姿も無く、窓の外は荒れ模様だ。荒い呼吸と共に姿を現した彼は傘をさせないほどの天候だったのか雨合羽を着ていた。荒々しく脱ぎ捨て流れる音は「ツキマシテハ」。真っ赤な照明は憤りの色。部屋に置かれた椅子を蹴り飛ばし、時に這い蹲ってステージのぎりぎりで留まり顔を上げる。ぞっとした。外は雪が降っていた。

そうして再び平穏な部屋へと戻る。時間が進むような、巻き戻されるような、夢を思い返すような時の流れ。初々しさもある会話がCoffeeと共にある。コーヒーはブラックで良いらしい。牛乳の期限が切れてしまったのか、買ってこようかどうかと話している。彼女は猫舌らしい。うたた寝をしてしまう彼女にタオルケットをかける、やさしい。やさしい顔ばかりする。フルートの音がした。

続く「ニュー・マイ・ノーマル」では、みなが最新の機種でやりとりをする中彼だけは部屋の子機を使っていた。繋がりを持てそうで繋がらない、流行りのアプリは使えない。手を取る実感は、スマホなんかで得られるだろうか。手を取る実感、交わされる誓い、繰り広げられたプロポーズに「Party」は良く似合う。典型的な跪くプロポーズ。幾度とくぐる扉、空を青い鳥が飛んでいるが家の中には入れない。バイバイと、消え去ってく。

幕間、赤子の泣き声を聞いた。
人の動く物音の狭間で、確かに聴こえていた。
幕間なのだからお喋りに花を咲かせるあの子は聞こえないだろう。しめしめ。誰が休んでいいと言った?これが聞こえていたか否かで、後半は姿を変えるのだ。

私は書き残していた。
「ミセスは大森元貴の曲を届けるのだ。」という彼女の言葉を。その意味を遂に今知るのだろうと、実感しているのだろうと思いながら、さびしかった。装置のようだと思った。そんな風に思ったことがなかった。苦しかった。表現は様々であり、バンドがこうして、ライブとミュージカルの狭間である手段をとること。その姿勢にロックを感じ眩しいと喜びながら、目が上手く開けない。
「何を信じて何を」という言葉が、分かり始める。私は問いたかった。何をしたいのだと。これが、したいことなのかと。したいことなのだろう。プロのエンターティナーになるのだ。きっと。それならば尚更、「わがまま」とは、何だったろうか。

私にはそれはumbrellaの音だった。雨が降る、あの日の音。ピアノの音。「唐揚げに衝撃を覚えたのは小学生以来」という台詞だけ覚えてしまっている。ひろぱ、台詞でもわんぱくだ。お花見には少し早かった、週末は、と彼女の可愛らしい問い掛けを断り強まる雨。傘があるわけではない、濡れないように気遣うわけでもない。先を歩いてしまう彼と、雨の中傘を刺さず濡れたかったと歩む彼は「春愁」を口にした。どこか様子がたどたどしく、プロポーズを終えた彼だとは思えない。彼の子、だろうか。彼の子供時代だろうか。「あなたが生きて」と扉を叩くような、ガラス窓を叩くような振り付けが印象的だった。「だいすきだ」と零すと雨は上がり、取り残された彼女との会話が始まる。週末付き合って、というおねだりに、おどおどしながらも心が弾む浮かれた笑みがとても可愛い。ここからずっと可愛い。「Just a Friend 」があまりにも可愛い。今日だけは今日だけは、と彼女の気持ちがこちらに向いていないと分かりながら、少しの期待を乗せて、映画、ショッピング、レコード屋さんとデートは進む。ランチはハンバーガーだったろうか。レコード屋さんで彼女が選んだ盤は「THEATER」という。彼女はそれだけ楽しい週末を過ごしてなお、雨に置き去りにした男の元へと帰るようだった。流石の大森(仮)もずっこけていた。そりゃそうだ。

この後何かが起きた。
「ああどうか」と聴こえた。聴こえてしまった。アティチュード ドッドッドッ みたいなことになる。何だったんだ。今思い返しても何だか分からない。その曲は確かに「Attitude」だった。白い花を彼女へと手渡す。白薔薇だったろうか。白いカーネーションにも見えた。花言葉は、。ここから放心がまた始まる。噂によると「Feeling」「ケセラセラ」と続いたらしい。
Feelingの歌詞は夏の衝撃二日連続歌詞違いの真意は如何に!から原曲の歌詞に戻っていた。安心した。確かに安心した。おまけにC1と同じ歌い方。「終わったことだから」と始まる歌詞に胸はきゅっといつもしていたが、この日は彼があまりにもお茶目な表情をしていた。大好き。
ケセラセラは小劇場のような場所だった。藤澤(仮)の「劇場」という語りが始まる。あまりにも顔が近くて、けれどいつもの柔らかさはそこに無くとても格好良かった。劇場に取り憑かれている、表現に囚われている、そんな男の独白だったように思う。淡々と用意されたセットに3人が並ぶ。藤澤(仮)はアコーディオンだった。とてもよく似合っていた。ケセラセラで若井(仮)は、感電しなかったらしい。ペンを握りながらクラップだけしたような気がする。華やかな銀吹雪はそこそこに、会場はあっという間に片付けられてしまう。労いの言葉や賞賛はそこに無い。さびしいのか、物足りないのか、何かを欲しがるように、等身大の「Soranji」が始まる。いつものような壮大な叫びや、悲しみや、尊さでは無い、そのまま人の口から零れていくSoranji。私が歌い継がれるべきだと思っているこの曲も、そんな顔を持っていた。本来は、彼から生まれた時は、そんなこどもだったのかもしれない。私が、大切な、世界に残り続けて欲しい曲だとその願いが高い所へ連れて行ってしまっただけかもしれない。見たことのない顔を見た。切なる叫びとなる間奏のフェイクは高音では無く下の音で広がった。強く、のびやかだった。なおこの時私の席には流石最前全てのスモークが落ちてきて目は痛いしくしゃみは出そうだし匂いがちょっと臭い。でもくしゃみなんて許されない。Soranjiを前にくしゃみだなんて。

そして「フロリジナル」。原曲にあるもの、春の夜風と共にあったもの、ドームの真ん中で囲まれながら披露されたもの、そのどれもと違う。ワクワクを腐らせない、行こうと扉をくぐる。前向きだった。部屋中にあったテレビはモノクロのノイズからhopeの彩りが流れる。


そして彼は誰も居ない部屋で、身支度を整える。
手に持って訪れたのにトランクを置いて行く。
彼は入ってきた扉から出て行った。
もう戻らなかった。
帰ったのか、進んだのか。夢から覚めたのか。
そのトランクには何が入って居たのだろう。
何故置いて行くのだろう。
華やかでありながら、等身大の物語であった彼のその思い出たちだろうか。
何故、この物語は華々しい物ではなく、人の一生、もしくは夢だったのだろうか。彼は何が無ければ、そう生きられたのだろうか。何が有れば、そう生きられたのだろうか。コーヒーはブラックで、牛乳を買ってこようかどうかと些細な話を愛おしい人と出来るのだろうか。家庭菜園を楽しむ時間が、あるのだろうか。

人は彼に才能があると言う。
私のきらいな、彼を遠くへ追いやる「才能」。
そんなものが無ければ、と私は思ってしまった。
そのトランクに才能を詰めて、置いて出て行ってしまえばいい。賞賛の声を詰めて、置いて、去ればいい。
ああがよかった、こうがいい、こんなものは違うという過去の1ページを愛する声を置いて行くようにも思えた。やりたい表現、伝えたい表現、それらを止める権利は誰も持っていない。僕らは今を大切にする、過去を愛するために。そんな言葉を思い出した。

巻き起こって当然の「賛否」という言葉をあえて彼が使ったのだとしたら、「賛」も「否」も考えたいところだとあの日までは思っていた。どうせ私は「お手上げの賛」だと思っていた。
冒頭の数曲で感じていたのはあまりにも賛からは離れた、これでは彼の独壇場ではないか、という薄暗いものだった。何故二人は遠く、先客に混じっているのか。あまりにも寂しいじゃないか。あなたはその真ん中で笑いすぎてこちらに尻を向けるくらい二人が好きなのに。
「バンドのライブ」と「ミュージカル」その狭間のような演出方法。どっちつかずと思えるくらいバンドのライブでは無く、ミュージカルでは確かに無い。名前があるなら教えて欲しいくらい、すとんと落ちてこない。胸につかえて、呑み込めない。それは「ロックバンド」として認識できないという事ではなく、「 Mrs. GREEN APPLE とは 」と云う自問の沼。

「なんなんだ」という言葉に、乗る気持ちは、昂揚より低く、怒りたくなるくらいに分からなかった。素晴らしいものを観たと理解する頭に心が追い付かない。置いてけぼりだ。知り合いと同じ日に観ることが無くて良かったとさえ思った。「最高でしたね!」なんて言われたら「ハ?」である。何か一言で片付けられるようなものでは無かった。怒りたくなるという言葉の奥に、悔しさと喜びがあって、気持ちの整理を諦めて席を立った。

悔しい、表現者大森元貴の初めて知る一面があまりにも愛おしい。世に知られた顔とは別の、ファンクラブへ向けた顔が愛おしい。そこに引けを取らず、やってのける二人が何とも頼もしく頭を殴られたように目が覚める。二人も既に、バンドマンという冠だけでは足りぬ程に、表現者なのだ。

「賛」は言い換えれば「否」に成りうる。
「否」は言い換えれば「賛」に成りうる。
チグハグなセットのように、その言葉は本来の意味を蜜とも毒ともする。その答えに辿り着かない時、鋭利な刃物となって吐いた自らさえも傷付ける。

これは私からミセスへの愛情の軸を、何を持って彼らをMrs. GREEN APPLEと呼ぶのか、そう問いかける一夜の出来事。賛否で人が分かれるのでは無い、己の中にそのどちらもが生まれ、反転し、花を咲かせる。

私の賛否。
とんでもない人たちを愛したのだ。
泣きたくなるくらい、悔しい。

お手上げ。

個人が持ち帰るものになっていると、彼は言った。その通りだと思う。今までとは違うアレンジ、どれもが新曲のように耳に新鮮だった。それが悲しい人も、嬉しい人も居る。私のように、二人が奥に居て、彼ばかりをスポットライトが追うことを寂しく思う人も居れば、嬉しい人も居るだろう。
良かったかどうか、嬉しかったかどうか。
そんなものは、自分自身で、私のアンテナが、答えを出すのだ。

だからどれだけ近しい人と過ごそうと、私はこの夜について話すことはあまり多くないのだろうと思う。それでいいと思う。

彼らがくれた贈り物。
とても素晴らしかった。何度でもあの夜に戻りたいと思うような、戻ることが怖いような、そもそも夢を見ていたようなそんな心地がある。

とんでもないものを知った。

おったまげ。


そういえば、11公演も遊びに行ったらしい。
22公演の半分、遊びに行った。
2枚、ステッカーが当たった。
とても長い旅を、一緒にしている気持ちになった。
各地で共に過ごしてくれた私の可愛い人たち。
本当にありがとう。
メメルもくたびれて居ます。

ありがとう。
私は今回のFCツアーを経て、愛が増しました。
もっとミセスが好きになりました。
このひとたちと、生きていきたい。
このひとたちを、見届ける。

ありがとうね、愛してるよ。

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