そういえば、6月11日
ProPose / Mrs. GREEN APPLE
凄く揺さぶられた、6月11日。
人が触れようとしたのではなく、人の生んだものに触れて、溢れ出るエネルギーに揺さぶられた。
気持ちが良かった、そして悲しかった。
己の想像力の乏しさに絶望する。
そんな日の、そういえば。
「ProPose」、所謂プロポーズ。
愛の告白、結婚の申し込み。
人生における、「私と一緒に生きませんか?」の提案。
私は第三の人間。
26年生きて、二人にだけ、私と一緒に生きませんか、と甘え、振られること十数回。
枯れては散る花、恋や命の儚さ。
儚さ故に大切にしなければ散ってしまうことを先送りには出来ないのに、そんなことには見向きもしない君。華が無い。群れていればいいと、視界の隅にその存在を捉えている心地。
学生時代ずっとこんな気持ちだった気がする、華が無い人間。好きになるに値しないと思ってた人間。
さァここでこの曲最大のポイント、ッス〜〜〜!!!!!!
文字にしようとしても高まってしまうね、とても好き、甘えたくなる。
「君にいつしか恋をしてる?」
こんなにクエスチョンマークを見つめたことがあったろうか。私は無い。何故ここにクエスチョンマークが置かれるのかとあの日からずっと私は期待をしている。正しく恋ができない私がまた彼の言葉一つどころかクエスチョンマーク1つに期待をしている。
何故自覚してしまえば断言出来るであろう「恋」にクエスチョンマークを付けたのですか。
恋に近しい友情は身に覚えがないだろうか。
私はある。とてもある。
初めて感じたのは小学5年生の時だったと思う。何をするにもその子の傍を離れたくない気持ち。ペアを作ろうものなら絶対その子で無ければ泣きたくなってしまう気持ち。その子にとっても自分がそうであって欲しい気持ち。他の子と仲良くしている様子を見ると私のことはもう飽きてしまったんじゃないかと許せなくなってしまう気持ち。
もしかして、恋? である。
その後中学生になりこの気持ちを抱えたまま、別の友達にも同じような気持ちを覚える。これでは恋多き女である。
恋だったのかなと思う時もある。
あれから十数年、今もその子達の傍を離れる気にもならず、今でも大好きと愛してるが止まらない。
私の中では恋ではない。恋ほど軽くないとさえ思う。でもこの感覚は人に伝わらず、恋に降格される。たまったもんじゃない。今でも私の心に触れた責任を取って欲しいと思う。これが恋でたまるか。
それで、それでなのよ、そろそろ答えに出会いたい。
どうして「?」を付けたの。
慣れてはいけない「好き」、
人を大切だと思う時の、「好き」。
限り無く愛に近い、いっそ愛でしかない「好き」。
周囲に理解されることも無く、相手に伝えることもできず、空っぽで群れていた好きになるに値もしない人にさえ笑われる。溢れ出る気持ちが痛いほどで、いっそ空になってしまえば楽なのに。
君の欠片一つに生まれた気持ちで僕には君が必要になったのに、見向けない君に必要な僕はいるの?
凄く懐かしいこの気持ち、おそらく多くの人が「恋の自覚、それに伴う戸惑い」として受け取るのでしょう。
私は何度も大好きな幼馴染たちを思い出す。
「おはよう」ひとつ、「またあしたね」ひとつ、身勝手に高鳴る心と誑かされたとさみしくなる夜。仲良くなれたと思う瞬間、相手が歩み寄ってくれた瞬間に心を閉ざしたくなる弱さも。
さァご唱和ください。
「君にいつしか恋をしてる?」
クエスチョンマークの意味って何?
疑問、質問、問い掛け。
僕は君に恋をしてる?
これが恋じゃないなら?
ハァ〜〜〜〜〜〜〜ッ
とてつもない個人の記憶に基づく解釈、何を読ませられたんだと思う人もいたことでしょう。
でもきっと、恋のような友情が、愛になる日があります。恋が芽ばえる日もあるかもしれない。必ずしも手を取り生きていくのは恋仲だけでは無いことも。
そういえば、
額縁の中央に咲く花、マーガレット。
(教えてくれたフォロワー様ありがとう)
花言葉は「心に秘めた愛」。
ProPoseの中に隠れた rose 、愛の花。
因みにこの額縁、心の縁だったりしませんか。
外には顔を出さない自身の感情に戸惑う、瀬戸際。
心に留めておこうと押さえても溢れ出る気持ちに口から花を零すように息を塞がれる苦しさが見えるこの曲が好きです。
そして自分の感情を異質だと感じていた私にこの曲があって本当に良かった。
恋少なき愛多めの人生、こうして報われることに涙。そして多くの人には初めての恋への戸惑いになるであろうこの歌へ、愛を込めて。
追伸
TwitterでProPoseの絵を沢山見て、やっと馴染めなかったこの曲への気持ちに気付きました。素敵な皆様へも、感謝を。
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