『Studio Session Live』フロリジナル

まず初めに、私は全くフェーズ1と呼ばれる彼の最愛の青春の時期を共に過していません。フェーズ2、それも年末にかけての歌番組から虜になっています。その上で最もの大前提として彼らしか全てを知る人はいないことを踏まえ、インタビューやブログ、等から感じたことのみで私の感想はその日々に触れながら進みます。
Twitterにも記載する通り「何もよく分かってないJAM'S」に過ぎません。昨日も、今日も。

🌿‬ なのでしょうか
💐 なのでしょうか。

フロリジナル。大好き。
何番目に好きだとかどの曲が一番好きだとか全くそういう話は好きで無いし、どの曲も大切に違いない。でもこんなにも、人間関係においての私のさみしさを歌ってくれた曲は何処にも無い。明日も一年後も、きっとない。


では再生しましょう。

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星が降ってるのかと思った。照明の話です。
または蛍だとか。森の妖精でも良いけれど。
でもあの日、春の終わりに聴いたからかな、どこか夏の香りがして。緑が濃くなる頃、夜。少し前に降った雨が草木を蒸らした時の香り。

緑の深さに世界が薄暗い月明かりの頃、彼が歌い出しで瞬くような照明、おしゃれすぎて拍手。
そしてこのトイピアノ、でしょうか。星が瞬いたらこんな音だろうなと思うその音、Soranjiのフルートと全く印象の違うけどキーとなる音、藤澤涼架。好き。きらきら星の音だ。
「その先の街」と言われる度、何故かニュー・マイ・ノーマル を思い浮かべてしまう。緑の深い森に、休止の頃思ってしまうように。ケガをしたこと、譲れないことがあること、それでもアーティストとして引き返せないこと。
人の心もまた、居心地の良い森があって、進むべきだったり、進むしか無かったり、進みたくなるような街があること。

全体的に今回のフロリジナルには、原曲にある蹲っているような意固地な寂しさよりも、森の中を見渡したり、ざくざくと歩み進めるような心地がする。

誰かのために来る明日に言いたくないのに口から出てしまったような「きらい」の表情。森の中では大きくてどうしようもない悩みも街に出てしまえば世界は広くて自分の悩みも、ちっぽけだと言わされてしまうようなさびしい声。

サビ、タンバリン鳴らしてるダニキが可愛くて笑う。すごく良い。
愛してるなんて言葉はもういいから、今抱き締めて欲しいと素直な気持ちが痛い。
思い合い、愛し合うからこそすれ違う決意。相手にとって完璧になれないように、相手も完璧な思いを私にくれるわけではない。
でも寂しすぎないような、寄り添う照明が柔らかい色で心地よい。夜の散歩。

間奏再びのトイピアノにフルート、ああ藤澤涼架が二人居たらと思った。本当に。

「大切な人に大切に」からずっと、誰かの手を取りたがるように手と手を重ねて指先を合わせている様子が抱き締めたくなるくらいちいさい。追う側が伸ばそうとする手、去るその背に、その裾に触れたい。手を伸ばすことは正解だろうか、行かないでと思うことは、甘えだろうか。追いかけようとするような、はたまた街へと歩を進めるような、キーボードの音が私は好き。止まっていられない、動かなければもう会えない、動かなければあの街へは辿り着けない。追ってきて欲しいと振り向いてしまう声と、もう進むね、と告げるような声。

「どうせ居なくなるなら触れないで」が、本音だと思えない。いつか来る別れを知っていても触れられたい、触れたい。いつかミセスが居なくなろうと、その痛みを知らないことよりも、その痛みに涙する日を選びたい。人間単位に落とし込んでもそう、別れたあの人、去ったあの人、どの痛みも。
その時はこんなに辛いなら触れなければ良かっただとか、思ってしまうけれど。
つい口から出てしまった強がり、綺麗な思い出として留めようと涙が溢れないように空を嗅ぐこの仕草。顎をくいと上がる描写が好き。

外に思いを馳せて胸を踊らせることも、消えちゃいたい夜も、同じようにその日その時から曲が生まれ、導火線となる。導火線が燃え尽きてしまったら辿り着く先は。その導火線は曲が生まれる時にジリジリともう燃えているのかもしれない。
そしてその森はそもそも自分が生んだ音楽であって、その蔓に雁字搦めになる日も、包まれる日も、あるんでしょう。
それでも「ワクワクが腐るから」と、進むことへ優しい笑みを浮かべる大森元貴がすき。

そんな「導火線」からの照明、一読暗くなり、夕暮れのように朝日のように強い暖色となり差し込み、月明かりのような青白い光から、表情が見えないまでの逆光。目まぐるしい時の経過、明るいポップな曲、海の底のような曲、森から見渡せる全ての曲たち。

フロリジナルにおいて、抱きしめて欲しい、大切にされたい。そんな気持ちは現在進行形なのにも関わらず、「ただただ信じて そばに居て欲しかった」これだけが過去形であることが私の寂しさのピークであり、あの先の街へと進んだ証明のようでもどかしい。ただ原曲にあるようなとてつもない寂しさよりも、変わらない事実として胸にあるような声と、その事実を受け入れられたような声色と、それをうかがうように見つめている若井滉斗が好き。隣にいる二人の表情がやわらかくて、いつも安心する。

正解も不正解も無い、あの時も今も無い。
完璧な思いはこの世に無い。
それでも独りでは無い。

この終わり方が、少し報われて、とめどない寂しさの川が流れ続けることも事実で、やさしい。絶対忘れたり、なかったことにもならず、その体を巡り続ける。


そばにいてほしかった、いなくなってしまうなら、いらなかった。泣き、喚くような歌詞を引き連れ進んだ先の10周年。おめでたいというだけでは済まされない、ここにもきちんと切なさを残す。事実だから。

このライブの中で10周年、という節目を強く感じさせる曲。さびしかったこと、くるしかった別れ、あったね、と共に振り返ろうとするようなフロリジナル。

私には。










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