オジー・オズボーン「Diary Of A Madman」

現在のように溢れるほどの情報にアクセス出来るようになる以前、僕にとってのインターネットとは5つ上の兄だった。いや兄を通して世界を見ていたわけだから兄はブラウザやISPと言えるかもしれない。それほど絶大かつ崇高な存在であった。

 そんな兄からお前コレ知ってるかと渡されたのがオジー・オズボーンのセカンドアルバム「ダイアリー・オブ・ア・マッドマン」である。訳して「狂人の日記」、知っているわけがない。私その時11〜12歳である。情報の押し付けにもほどがある。言い換えれば悪質なSPAMである。誰なんだジャケットのこの血だらけのおっさんは。裏ジャケは天使みたいになっとるぞ意味分からん。そんな刹那、兄弟の部屋に設置されたAIWAのステレオシステムのスピーカーから爆音が放たれる。1曲目「Over The Mountain」炸裂するドラムフィルで幕を開け野蛮にユニゾンするギターとベースを聴いているうちにボーカルが入る。何だこの声は。全体を通して気味が悪く何かが憑依したようにダブルトラッキングされた歌声。もう一度ジャケットを見返す。血だらけの歌い手の後ろで邪悪そうな子供がこちらに指をさす。誰なんだ。もう世界観ごと分からない。だが、もう逃げられなかった。

 という衝撃的な出会いとともに虜になってしまった僕は遡ってファーストアルバムを聴いたり、ブラックサバス時代を楽しんだり、またその先来日公演の度に兄に連れて行かれたり、バンドメンバーの交代や変態的な奇行やゴシップに一喜一憂する立派なオジー・ファンとして歩んでいくことになる。ご本人は現在も健在で活躍中だがさすがに高齢であるためツアーのキャンセルなどが多発しているそうで1日でも長く同じ時代を生きてほしいものである。

 そんなオジー・オズボーンの名曲、名アルバムはたくさんあるのだが、やはりこの出会いとなったセカンドアルバムのタイトル曲「ダイアリー・オブ・ア・マッドマン」の編曲は僕に“悪魔的に”影響を与えたのだった。この曲はいわゆる本編は2分半ほどで絶頂に達した後急転し静かになりアコースティックギターの呪術的なアルペジオにストリングスとクワイヤが加わり段々と厚みを増しギターソロへ突入したのち本編のサビに戻り、メインモチーフを狂ったように繰り返して生き絶えるのである。こうして言葉で書くと死ぬほど聴きたくないし自分の語彙力にも耐えられない気持ちになります。しかしこの「一旦絶頂を迎えた後、空虚な空間から再生を試み、繰り返しながら大きく成長し絶命する」という概念は例えば今日のEDMなどで用いられる「キックをミュートして虚無空間を作りスネア連打でテンションアップからの再開!」と同じ構造だと思います。もちろん特別これがオジーさんの発明だとは言えません。それは音楽の基本的な構造の1つと言えるかもしれません。僕を虜にしたのはその中に悪魔的なドラマを描いた部分にあるのかもしれません。歌詞は勿論ですが、ロックバンド的な演奏の激しさと、ストリングスやクワイヤの叙情性が交差して僕の音楽的嗜好の方向を明確に形作った1曲だと思いますし、これより前には多分存在してなかったオカルト叙情音世界の発明だと思います。いや、もしかしてあったのかもしれませんが、これ程分かりやすく詰め込んだ作品は知りません。是非みなさんもジャケットに惑わされずこの世界観を聴いてみてください。

☆大好きポイントは他にもあります。アコースティックギターのイントロからディストーションギターに変わる突然感。

☆2分半の空虚世界に突入する前の8小節のリフの構造は素敵です。コレはギター・アレンジですから、12弦を重ねるポイントのアイデアとかはランディー・ローズさんですかね素敵です。

☆最後のモチーフ繰り返しの重なり方が雑なユニゾンで済ませてなくて飽きさせません。こういった細部まで気を使っているのは本当に好きです。

☆現在では様々な仕様の音源が存在し、演奏メンバーが差し替えられていたり、音圧向上のために残念ながらダイナミクスが失われてしまっているものもありますので、なるべくなら日本盤のオリジナルアナログ盤を...難しいですよね...考えてみれば激しさと叙情性が交差するこのような楽曲は何かを犠牲にしなければならないデジタルとアナログ過渡期に沢山再生産された悲劇の産物でもあったのかもしれません。

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