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チェコの夏学校 1997年 3

夏学校の始まり

 夏学校の初日はクラス分けのための簡単な試験があった。寮で同室の彼は試験があるからと勉強していたが、僕は初級クラスを希望していたから勉強もせずに試験に臨み、希望通りに初級クラスに入ることができた。初級クラスは本当にチェコ語そのものが目的のクラスで、僕は英語で勉強するクラスだった。他に仏語、独語もあるようだったが詳細は分からない。クラスメイトはアジア人が多くて日本人が数名、韓国人が5人くらい、他はイギリス、マルタ、アメリカからの参加者だった。クラス分けで初めて日本人も参加していることを知った。日本からの参加者はプラハに住み始めてチェコ語の勉強が必要な人、建築が好きな人など多彩だった。まあ、僕も理系の大学3年生でなぜチェコ語?ということはよく聞かれたし、初めての海外がチェコということも多少は驚かれた。韓国からは大学でチェコ語を勉強している学生が主だったが、仕事でこれからプラハに住むという人もいた。ほかにモンゴルから参加している大学生もいたが、彼は当初から観光のために来たと言っていて、早々に授業にも出てこなくなりvanishing mongolianと呼ばれていた。もちろん学校以外で彼を見かけることはあった。彼はシベリア鉄道で来たと言っていて、帰りも同じだと思うと憂鬱になるとしきりと言っていた。
 上級クラスはチェコ語が理解できることは当然で、チェコの歴史や文化、言語学などを学ぶクラスのようだった。日本の外国語大学のチェコ語学科の人もいたが、彼らは当然のように上級クラスだった。これがいわゆる語学学校ではなく大学で行われる夏学校の本来だろうと思う。
 僕のクラスの授業は平日の午前に旧市街広場近くのカレル大の建物で行われて、午後からは市内のエクスカーションが企画されていた。午後のエクスカーションは参加自由だった。週末は授業はなく、バスなどで出かけるエクスカーションが企画されていた。参加は自由かつ無料、参加しなくても寮の食堂に行けば無料で食事ができた。
 こんな感じで少なくとも初級クラスの場合は観光が目的でも十分に目的を果たせるような形だったのである。

クラスの修了時、カレル大学の中庭だと思う、紙にプリントされて配られた

キム君と韓国からの参加者

 僕はクラスメイトで韓国人のキム君と仲良くなった。キム君はチェコ語学科だが、親日家で日本語もかなり上手だった。クラスメイトでも夏学校全体でも同年代の日本人男性は僕だけで、キム君の方から色々と話しかけてくれて仲良くなった。僕にとっては初めての外国人の友人だった。

黄色がキム君、エンジが僕、1997年8月撮影

 韓国からは男子大学生がもう一人、参加していた。名前は忘れてしまったが、滞在中に散髪をしにいき当時のプラハで流行っている髪型にしてもらったりとちょっと面白い人だった。彼は日本語は話せなかったが、当時流行っていたJ-POPが好きだったことを覚えている。そのほかに同じクラスにキム君たちと同期の女の子が2人いた。彼女らはいつも一緒に行動していて、学生寮の部屋も本来は別々だったところを無理に同室にしてもらっていた。夏学校の先生はせっかくなのに残念だ、というようことを話していたが、彼女たちは僕と同じで観光が主目的だったのかもしれない。そのほかに仕事でプラハに赴任してきた男性がいた。彼は当たり前だけど僕らよりは年長だった。たまに食事を一緒にしたが絶対にお金を払わせてもらえず、なんとなくではあるが儒教的な部分が日本よりも強いのだろうなと感じたこともあった。
 キム君を通して韓国からのグループとはかなり仲良くしてもらっていた。寮の向かいにちょっとした食堂、お酒も飲めた、があって韓国の人たちとはよくそこへ行っていた。一度などはクラスメイトの女の子たちが部屋でジクソーパズルをやっていて、難しいところがあるから手伝ってくれということでキム君たちと彼女たちの部屋へ行き、結構遅い時間だったのに盛り上がってしまい、隣人に「You are radical!!」と怒られてしまったこともある。ある意味では大学生らしい寮生活だったと思う。
 クラスメイト以外にも韓国から参加している人は多かった。当時はチェコでは日本人は短期間でもビザが必要だったが、韓国人はビザが免除されていたことも関係していたのだと思う。実際にプラハ市内を歩いていても韓国からの観光客は個人でもツアーでも多くて当時は日本人を見かけることはあまりなかった。その韓国からの参加者の中に、僕にとってはプラハを思い出すといつも彼女のことが想われる、そんなことになる女性がいたのである。彼女のことは別項にしよう。

色々な国からのクラスメイト

 イギリスから参加していたのはすでに仕事は引退していて、趣味?で勉強しているという年配の男性だった。彼には僕が理系、特に物理学科の学生であることを話すと、本当に驚いた様子でなぜチェコ語を勉強しているのかと尋ねられた。僕からすれば、あなたに同じことを聞きたいと思ったのではあるが。彼は気さくな人でおそらく僕らと話すことが好きだったのだと思う、チェコ語の勉強や発音の練習も一緒にしていたが、雑談はほぼ英語だった。僕の拙い英語でも全く嫌な顔をせずに付き合ってくれていた。僕の英語に対しては書き言葉みたいに話すから変な感じがするのは事実だけど不快ではない、もっと自信を持ちなさい、まあ発音はまだまだだけど、ということを言ってくれていた。僕は彼のおかげで今でも仕事で英語が必要になることは多いけど、ネイティブ並みでないことを恥じる必要はないと考えられるようになった。
 マルタからの学生もいた。僕にとってマルタとは歴史の中でマルタ騎士団という名前があり、ベルリンの壁崩壊からマルタ会談というリアルタイムで歴史に残る一連の出来事を見ているんだと感じたあの年、それぐらいしか印象にない国、というか国という認識もあまりなかったかもしれない。彼女はラテン系の美人で明るい性格で親しみやすかった。ただ、個人的に話したりすることはあまりなかった。ただ、チェコ語でマルタ人はマルチャン、マルチャンカ、火星人もマルチャン、マルチャンカになるからrとlの発音を混同しないように注意しなくちゃいけないと言われたことはとても覚えている。
 他にはアメリカ人の大学教授が夫婦で参加していた。彼の専門は忘れてしまったが(そもそも聞いていなかったかもしれない)、次の学期からカレル大へ赴任するので、そのためにチェコ語を勉強していた。とても明るい人柄の良い夫妻だったが、大学教員でもあって忙しいようでチェコ語のクラスでは一緒だったが、エクスカーションなどではほとんど見かけなかったように思う。チェコ語の発音に少し苦戦していた。特にrとlで苦労しているようだった。実はチェコ語の発音は日本人とは相性が良くて、僕も発音はけっこう良いのにね・・・、という評価を何度ももらった。
 国籍も年齢も違う人たちとクラスメイトになって、しかも自分の専門ではないことを勉強したことはとても良い経験になった。今でも自分自身の背景の一つにこの夏学校の経験があることは間違いないと思っている。

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