チェコの夏学校 1997年 2

プラハ到着

 新千歳から啓徳とチューリッヒを経由してプラハ空港に到着した。初めての海外旅行、国際線で、僕はチェックインの時に希望の席を聞かれて迷うことなく窓側席を選んだ。配置はおそらく3-4-3で独り旅、いまなら選択しないだろう席だ。啓徳ーチューリッヒで隣はおそらく中国の中年女性で日本語はもちろん英語も通じない人だった。トイレに行くのにも一苦労だったことは覚えているが、あとのことはあまり記憶がない。チューリッヒ空港ではお金がなくて何も買えなかった、当時はクレジットカードはないし、ドルはほぼトラベラーズチェック、スイスフランなんてもちろんない、チェコにいけばクラウンだし両替もせずにただ空港内を見学して過ごしていた。
 プラハ空港での入国審査は長蛇の列でかなり時間がかかった。並んでる間に「pane ~do」とアナウンスがあり、あーチェコに来たんだ、ちょっとだけ呼ばれているのが解ったという嬉しい気持ちになって、あまり焦る気持ちにはならなかった。まあ、焦ったところで入国審査が早くなることもないのだけれど。チェコ語は日本語の助詞代わりに名詞の格変化があって呼ばれるときには呼格という変化がある、自分の名前だし聞き慣れているものだけれど、それでもアナウンスが解るというのはうれしいものだ。ちょっと遅くはなったけど、無事に迎えに来てくれていた方、あとでカレル大の学生で夏学校の手伝いをしていると教えてくれた、とも無事に合流できた。そして、一ヶ月を過ごす学生寮へ向かったのだ。

寮生活、フランス人と同居する

学生寮はKelej Kajetanka というところだった。14,5階建くらいの寮部分と食堂などの共有スペースがあった。僕は2人部屋で基本的に同国人は同じ部屋にしないという方針があるらしくフランス人と同室になった。この時ばかりはフランス語をもっときちんと勉強しておくべきだったと後悔したが、後悔したところでフランス語がわかるようになるわけでもなかった。彼の名前は忘れてしまったが、もう銀行へ就職することが決まっていると聞くとそれで納得できるような、とても真面目な人だった。最後はハグして連絡先の交換までしたが、お互いに連絡はしないで今に至っている。
 僕は夏学校の始まる数日前(1週間はなかったと思う)に到着していたが、ほかに日本からの参加者がいることは全く知らなかった。それで同室のフランス人の彼が食事や観光に誘ってくれて、最初はフランス人グループと一緒に行動していた。みんな、フランス語ができない僕に気を遣ってくれて英語を使っていたが、やはり盛り上げるとフランス語になって、ときおり英語で解説はしてくれるのだが、なかなか話題について行くのは大変だった。そんな中で僕は北海道から来ていると聞いて、アイヌ民族のことをとても尋ねてくるフランス人がいた。彼はガブリエル(だっと思う)といって、あまり詳細は覚えていないが、アイヌのことが載っている教科書まで持っていて、ここにはこのように書いてあるが実際はどうなっているのか、ということなどを聞いてきて民族学系の人なんだろうと勝手に理解していた、本当のところは知らないままだったが。彼は少し細身で風貌はちょっと知的な遊び人という雰囲気で、当時の僕がフランス人に抱いていたイメージとある意味で一致する人だった。実際に日本人の女の子と付き合って、夏学校の終わり頃に一悶着あったのだ。そんなわけで夏学校が始まるまではフランス人グループに紛れて過ごしていたのである。

寮生活のこと

 寮の居住棟は14階か15階建くらいでエレベーターもついていた。しかし、これが古いもので狭いし、最初にボタンが押された階へ直行してしまう。僕の部屋は10階くらいだったと思うが、一階から上へ行くときはあまり問題がないのだけど、途中階から乗るときにはいつ乗れるかわからない。各階で待っている人たちとのボタン押し競争に勝たなくてはならないのだが、果たして競争相手がいるかどうかもわからない。そのうち、僕は一階からの登り以外は階段を使うようになった。

内扉のないエレベーターの中、上っていくところ

 食事は基本的に三食ついていて、朝と夕は食堂に行けば食べることができた。昼は朝にランチボックスが用意されていて、それをもらっていけば良かった。僕は食事に特に不満は感じていなかった。肉が薄くて固い感じだったが、そんなものだろうと思っていたし、リンゴジュースはあっさりしていて飲みやすいと感じていたくらいだ。あとからリンゴジュースは水で薄めたものだと聞いて、びっくりすると同時にあっさりしていて飲みやすいから、それもありだなと思ったくらい順応していた。食堂はいわゆるビュッフェ形式で、食堂で働いてる人たちはみな気さくないい人で僕はできるだけチェコ語で話しかけては大抵発音を直されていた。僕はチェコ語の一番初級クラスだったので実際に地元の人たちと交流する機会は少なくて貴重な場ではあった。

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