アレグロ(仮)

 鐘というよりは女の泣き声に聞こえる。高音に低音にとっちらかりながらも一つの旋律を形作る音の集まりは、荘厳な鐘の音なんぞよりヒステリックな女の喚きの方によく似ている。
 自分の鳴らすピアノの音を聞きながらそんなことを考えていると、指先がもつれて、譜面にはない不協和音が鳴った。汗で手のひらも指先もじとりと湿っているのに気が付く。白い鍵盤の上に置いた指を動かせないでいるのに、目の前にあるものと全く違う柔らかさを思い出した。鍵盤と同じように白く、けれど、あたたかく、血の通って盛り上がった筋と肉。ミスタッチで叩いた和音は、一層、ヒステリックな女の泣き声に似ている。
「集中できんのやったら帰るか?」
 呆れを含んだ声に後ろを振り返ると、さして動揺もしていない風の師が、足を組み替えながらこちらを見ていた。いかにも、つまらない音を聞いた、と言いたげな様子だった。問いかけのかたちをしていても、その言葉が実のところ断定であることは、すぐに理解ができる。賞賛をくれることの方が少ない彼女だけれども、こうもはっきり、弾くな、と言われるのは珍しい。
 すみません、と言いかけて口をつぐむ。謝る相手は師ではない。鍵盤の端に置いておいたクロスで鍵盤をぬぐってから、ゆっくりと立ち上がって、譜面台の上の楽譜を閉じる。表紙の端がこすれて、もう、破れそうになっていた。

 昨日、同級生の首を絞めた。相手に請われてやったことだった。どうしてそんなことをしたのか、理由は自分でもよく分からない。けれども、彼の首に自分の指が埋まっていく感触が、指先から消えないでいる。