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道の日

今日は「山の日」ってだけで「?」なのに、さらに「道の日」だなんて誰も知らねーだろー!

しかし、気になって『道の日』のルーツを見たところ、個人的関心が繋がってしまったので、文章を書いているという流れの中にいる。

ちょいと遡るが、自転車に偏った視点で始めることにする。すごく読みにくいと思うが、興味が湧いてくるようであればご一読願いたい。

めっちゃ長いです!では行ってみよー!!

近代化と共に輸入された自転車

大政奉還により江戸は東京となり、日本にも近代化の波が押し寄せる。
自転車という乗り物は、江戸末期には伝わっていたという話はあるが、明治になって少しずつ広がりを見せた。

当時の自転車は全て輸入物で、一般庶民には手が届かない高価な代物であったが、ちょっと頭を捻った商売人が貸し自転車屋さんを始めた。借りもので遊べるなんて最高なシステムが黎明期に生まれていたのだ。

既に始まっていたストリートカルチャー

自転車は庶民の格好の遊び道具となった。自転車に乗る人は次第に増え、子供たちもお小遣いで遊んでいたようだ。どんな風に乗っていたのかはわからないが、競争したり、曲乗りをして周りに迷惑をかけていたようだ。

「自転車が通行人を妨害することが少なくないので、道路上で運転することを禁止する」明治3年(1870)

日本でもっとも古いと言える自転車取締令である。道路で運転しなけりゃどこで運転するんだ!と突っ込みたくなるような取締りだが、こういったお楽しみと公の秩序の対立関係は、明治も今も変わらない。

個人が乗れて自由に楽しめる自転車は庶民にたいへんな人気があった。縦横無尽に走り回る輩に対して、取締令があちこちで発令されている。

なんでも遊びを追求すればするほどに、世の秩序からはみ出ることになる。遊びとは好奇心と探究心の終わりのない追求である。ルールを守って楽しく遊ぶなんてことを言った瞬間に矛盾に陥って、その先に得られるはずの何かは失われてしまうのだ。そこの絶妙な鬩ぎ合いがストリートカルチャーたる由縁でもあろう。

多様な乗り物の出現

同じ頃に、人力車も登場する。この前年には乗合馬車も登場しており、車輪のついた乗り物は少しづつ道路での存在感を増していく。

人力車の登場は、ちょっとした小競り合いを起こしていた。それまで人の移動を担っていた「えっほ!えっほ!」で知られる駕籠屋とは商売敵となり、客の争奪戦が繰り広げられたようだ。そりゃそうだ、揉めない方がおかしい。なかなか面白いストーリーがありそうだが、どこまでも脱線しそうなので触れない。

「車道」と「歩道」という概念は、江戸末期に横浜の外国人居留地に建設された「馬車道」が始まりで日本で認識さるようになったが、そのように区分けされた道路はごく限られた部分にしかなく、ほとんどの道路は区分がされていない状況だった。(現在歩道の総延長距離は日本の道路の総延長に対して15%ほどである。)そもそも車両が通れるように設計されていないため、ボコボコになっていたという。

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明治5年(1872)には「馬車規則」といわれるルールが生まれており、この時に車両の左側通行の概念が記されている。日本の道路における左側通行の原点と言えるであろう。なぜ左側なのか?という点については諸説あるが、イギリスから多くの社会システムを取り入れていたからというのがもっとも自然で合理的な理由だと思っている。

同じ年に、新橋 〜 横浜を繋ぐ日本で最初の鉄道が生まれた。明治政府は都市間を繋ぐ道路整備を進めようとしていたが、鉄道の安全性とスピード、そして軍事的な活用の優位性が勝り、五街道の大きなイノベーションは起きなかったようだ。道路整備は主に主要都市の市街地において進められた。

コミュニティ形成から文化的活動へ

自転車に乗る人が増えてくると、コミュニティが多様に出てくる。明治19年(1886)には帝国大学(現東京大学)の教員たちが「自転車会」を設立し、明治26年(1893)には三菱財閥3代目総師の岩崎久彌氏も関わり本格的な自転車倶楽部「日本輪友会」が設立されている。明治33年(1900)には日本初女性の自転車倶楽部「女子嗜輪会」が誕生している。全国各地に自転車倶楽部が誕生し、遠乗会や競走会が開催されていたようだ。今で言うロングライドと草レースと言ったところか。これら倶楽部の会員の多くは資産家や地元の名士たちだった。

同じ時代にフランスでは、ドレフュス事件(1894)が勃発して大騒ぎになっていた。そして、ダンロップが空気入りタイヤを発明(1888)したことで、サイクルロードレースの本格的な夜明けを告げる動きが始まっていた。新聞社主催のパリ・ブレスト・パリや、ボルドー ・パリ がフランスの大衆の心を掴み、一大興行レースが幕を開けていた。そして、アンリ・デグランジュが世界初のアワーレコードに挑戦していた。

数年後、日本にもその流れがやってくる。明治31年(1898)上野の不忍池にてセンセーショナルな「自転車大競走会」が開催された。自転車好きの間では知られた通称「不忍池レース」である。

ストリートカルチャーからエンターテイメントへ

日本自転車史研究会によると、競技は朝10:30から始まり「子供競争、2マイル競走、提灯競走、10マイル競走、曲乗り、1マイル競走、3マイル競走、大人競走、選手競走5マイル、傘持競走、20マイル競走」全10種目の競技が行われた。集まった選手は数百名とあるので、子供や曲乗りなど雰囲気で伝わってくるところから推測すると、庶民的な自転車の運動会で、最後にプロのレースで最高潮に到達するお祭りみたいな感じではないかと推察される。

レース会場には様々な国の旗が吊るされ、華族をはじめ花柳界からも多数の観戦者が来場し、大いに盛り上がったそうだ。横浜バイシクル倶楽部の50名以上の外国人も参加して、会場には万国旗が並んでいたという。選手が着ていた上着(ジャージ?)には財閥などのスポンサーの名が書かれており、つまりこれはトレードチーム制が採用されていたということだろう。すばらしく革新的なイベントであったと想像できる。

「メインレースは最後に行われた20マイル競走で、鶴田勝三とドラモンドの一騎打ちとなった。鶴田が1車身以上の差をつけて優勝した。鶴田は、千葉街道市川逆井間レースに引き続きの勝利であり、その名声と実力を確実なものとした。」とある。

カツゾウ!ショウゾウ?いやカツゾウで!名前からして修造なみになかなかのスター感が漂っているではないか! と同時にそれ以前にもレースやっとるやないかい!ということも伺える。なんなら勝三は富士山ダウンヒルもやっているのだ。実際に日本で自転車のレースが始まったのは明治14年あたりで、外国人居留地の英国人が始めたのではないかと推察されている。

いつの時代も、カルチャーの芽は小さなコミュニティから生まれる。それは楽しいとか、面白いとか、興奮するとか、達成感とか、人が持つ潜在的な深い心にダイレクトに刺さる何かの共感と連鎖なのだ。

そして、それらの種はすごく身近な日常の中にある。道は日常に当たり前のようにある。何も意識することのない道を舞台として、人知れずさまざまなストーリーが生まれ、消え、たまにそれらは語り継がれるものとなる。

いつしかそれらは、大きなウネリとなって、大衆を沸かせるほどの何かに成長する。個人的にもそのようなウネリのようなモノを体験した事がある。もはやそれはコントロール不能となり、勝手に増大していくのだ。

同年、欧米において自転車産業の爆発的発展に伴い自転車の価格が急激に下がった。これにより一般大衆にも手の届く自転車が普及するようになった。日本においても輸入が加速し、同時に宮田製作所を始めとした国内生産の自転車も生まれ、一気に普及することになった。

このような時代背景の後押しもあり、多くの自転車競争が開催され、庶民の娯楽としては絶大な人気を誇っていた。この流れは大正、昭和へと繋がり、第二次世界大戦前まで続いていたようだ。自転車競技は今よりももっと身近なスポーツであり、大衆娯楽だったのだ。

交通環境の複雑化

大正時代に入ると交通環境はより複雑になっていく。自動車の数が増えていく一方で人力車や馬車などが減少し、主要なモビリティの比率が入れ替わっていくことになる。このタイミングで交通秩序の混乱が深刻になりはじめ、手動の信号機が導入されたり、車両の左側通行は明確に法律で定められることになっていく。道路構造を構成する要素が出揃うのである。

大正8年(1919)に『道路法』が成立した。この法律はなんと明治21年に立案され30年もかけて作られたそうだ。この時点で日本の自転車保有台数は200万台を超えていた。

道路改革が動き出した日

翌年、大正9年8月10日に『第一次道路改良計画』が決定され、道路建設のための道路公債法が制定された。この計画は、日本の道路の発展に大きな可能性を見ていた。30年をかけて国道、軍事国道、府県道や、6大都市を繋ぐ大規模な道路整備を目的としていたが、残念ながら3年後の関東大震災にによって頓挫した。

「道の日」を設定した1986年当時の建設省は、この第一次道路改良計画が生まれた日を記念日とした。道路整備に重要なのは具体的な計画と予算組であり、それが初めて形となったという意味で記念としたのかもしれない。

ん? 大正9年ということは、1920年ではないか!今からちょうど100年前だ!? 誰にも知られない記念すべき100周年!! 

というわけで、勝手に乗っかって一人で盛り上がっている。

日本の近代化と同時に道路政策は右往曲折しながらも、時代の変化に合わせてどうにかしようという動きはあった。しかし、道路網が本格的に広がっていくのは第二次世界大戦以降のことだ。

「自転車道」は新しい考えではなかった

自転車道の必要性を行政で取り上げられるようになったのは、100年前の『道路法』ができた時からだ。

街路構造令(内務省第25号)
第3条  街路は車道および歩道に区別すること。ただし、1等小路および2等小路においてはこれを区別しなくてもよい。 
 街路の状況により遊歩道を設ける時は歩道として兼用することができる。 
 広路では必要であるときは高速車道または自転車道を設けること。1等大路でも同じ。

日本の行政に関わる一部の政治家は、近代化と同時に自転車利用に対する認識と有用性を見出していた。

大正12年(1923)の道路政策において田中萃一郎からコペンハーゲンを手本とした自転車道整備の提案が出されている。世の中の自転車利用が見過ごせない規模であり、社会的影響を持っていたことを示している。しかし、実際に自転車道が現実のものになるのは難しかったようだ。

それにしても、この時代に道路政策の参考としてコペンハーゲンの名があげられるとは、デンマーク恐るべし!コペンハーゲンはこの時既におよそ50kmの自転車道が整備されていたという。

昭和13年(1938)には、17号線中仙道に日本初の自転車専用道が作られた。板橋区の中山道沿い志村3丁目付近は工場の集合地帯となっており、1万人以上の労働者が中仙道を利用して通勤していたそうだ。道路は広く市電やバスが利用できたが、1万人以上の通勤を処理できる機能は備えていなかったことから、自転車通勤が推進されたのでは?という推察がされている。

しかしそれもいつしか消え去り、なんだかんだで自転車が安全に走れるスペースは考慮されないまま現在の道路構造が浸透しているという状況だ。

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自動車の増殖

日本に自動車がお目見えしたのが、先述した不忍池レースが開催された年で、フランスのパナール・ルヴァソールと言われている。世界的に自動車が普及し始めるのは明治41年のT型フォードの誕生以降であるが、同年日本で最初に自動車を作った吉田 真太郎は、なんとチャンプ鶴田勝三の兄であった。吉田は明治30年に木挽町に自転車輸入販売業「 双輪商会」を設立しており、勝三に負けず劣らずの自転車愛好家だった。

日本における自動車普及は大正12年、関東大震災で公共交通機関が破壊されたことで交通網が麻痺し、自由に動ける自動車の利用価値が高まったことが大きなきっかけとなった。自動車の保有台数は震災前の1万台から翌年には2万台を超え、3年後には4万台を超えるという急激な右肩上がりで伸び、更にその後も伸び続け、第二次世界大戦を経て、戦後復興から高度経済成長へ、そして国際経済へと発展していくと同時に道路網の積極的な開発がそれらを実現し、自動車産業の計り知れない暴力的とも言える覇権が到来した。

自動車と自転車はともに車両に分類されるものだが、長いようで短い歴史の中で相互に安全な形で共存ができたことはない。むしろ、成長速度が早すぎた事が様々な歪みを生じさせたと言える。さらに、1970年の道路交通法改正による「自転車は道路標識にしたがって、歩道を通行することができる」とされた時から共存への可能性は途絶えてしまった。経済の大きな流れと、行政との複雑な関係性は良くも悪くも日本を急激に大きくし、流れに任せた警察による国民へのおよそ半世紀に渡る「洗脳」は罪深いと感じている。

1970年代は産業と道路のある種の分岐点だった。もうひとつの自転車王国といえばオランダであるが、オランダはデンマークのように始めから自転車王国ではなかった。 オランダは世界の先進都市と同様にモータリゼーションの波に乗っかっていた。しかし、60年代〜70年代に世界的に動揺していたリベラルな運動がここにもあり、ニューレフト(新左翼)の若者たちが政治に参加して古い体制からの政権交代を果たした。このことが現在のオランダの道路政策のベースを築いたのだ。その大変革のストーリーは凄まじいものだったが、世代交代がちゃんとなされることが、どれだけ社会システムの変革に重要なことであるかを物語っている。

現在は、NYC、ロンドン、パリなどの都市ベースで同様の変革が緩く起こっているが、クルマ文化が発達しすぎてしまった21世紀は、なかなか一筋縄ではいかない。しかしそれでも、気候変動の研究が進んでより具体的な危機を知ることが増え、サスティナブルで質の高い幸福な人生観が進むにつれ、そしてパンデミックをきっかけに自然の脅威を改めて思い知らされたことにより、大変革と言えるほどのムーブメントがあちこちで起きている。

モータリゼーションの代償と、これからの道路の在り方

ITの時代にかつての自動車産業は衰退を見せているが、未来へ向けた新しい取り組みが始まっている。道路政策においては2009年に道路特定財源が一般財源とされ、2016年には「自転車活用推進法」ができたことにより、本来あるべき姿へ向かおうと動き始めた。

しかし、戦後復興とモータリゼーションを経て形成された、日本国民の交通リテラシーの歪みは簡単には修正できない。時間はかかるだろうが、人々の意識と道路構造の変革を同時に進めていかなければならない。

最初から変わっていない

明治から大正、そして昭和から平成、令和へと、たかだか100年ちょっとの間に生活環境は劇的に変化を遂げたが、我々が一生命体で太古からDNAを受け継いでいる人間である限り、根源的なものはなにも変わらないし、人間が愚かであることも変わっていない。

それでも、快適な地球環境を取り戻すために、未来の都市計画や道路計画、そしてエネルギーについても、よりよい形に変わって行って欲しい。

国土交通省が進めようとしている、「2040年 道路の景色が変わる〜人々の幸せに繋がる道路〜」というプロジェクトがある。ポストコロナだからということ以前に、人々の幸せは道路の在り方が変わるだけでもっと豊なものにできるハズだ。

いつか、道からストレスが払われる日がきたら、それを記念日としよう。その時にはきっともっと多くの人が幸福を感じられているはずだ。

#choosecycling   #CycleCulturalStudies



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