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「理解ある彼くんにならなかった」理由

こんばんは。イツカです。
今までのnote記事を追いながらこの記事を書き進めようとしたのですが、いかんせん目が滑る滑る。なかなか頭に入りません。
なので現状で書き出せる範囲を打ち込んでいこうと思います。



「理解」とは何だったのか

これは「理解のある彼くん」という言葉を知った時からの大きな疑問だった。相手の何を理解するべきなのか。
もちろん病気や障害のことであるのは分かる。その特性を持ちながら生きていくことに対して、自分は何ができるか、ということなのだろう。

もしかしたら自分は何が「できない」か、という点を見失ってしまっていたのかもしれない。
何ができて、何ができないのかを彼女ともっと話し合うべきだった。

自分の状態も考慮した上で「できない」ことを並べて、それを「できる」に変えてゆくこと。それが「理解してゆく」ということだったと感じてきた。 彼女への働きかけを欠かしていた、ということも思い浮かぶ。
「理解ある彼くんになりたい」ということや、このnoteの存在のことも隠していたから、動きが緩慢であった。

理解したい相手へのアクションが足りなかったのは反省事項である。彼女にも何ができて、何ができないのかなど、聞き込みをする時間を取るということができれば良かった。

彼女を「理解する」ということ

前項でも述べたように、彼女の状態を把握しきれなかった。それゆえにニーズを掴めなかったし、記事では現状の報告だけで二人の言動の深掘りができていなかった。

noteという媒体をもっと活用して、例えば双極性障害の当事者さんにコンタクトを取ってみるだとか、できることはもっとあったと思う。

考えが浅かった、という稚拙な言葉が出てしまう。


引きずられてしまう

彼女はベッドとPC前の往復がほとんどの生活だったのは今までの記事でも分かっていただけると思う。
そうすると、なぜ自分だけが外で働いて家事をしているのか分からなくなってしまう瞬間があった。

仕事の休職も三度ほどしたし、最後の仕事は二回しか出勤できなかった。
動けない彼女に引きずられてしまうのだ。彼くんとしての行動もできなくなってしまうほどに、家から出られないことが増えてしまった。

「なれなかった」と言いたくない

結局のところ、これになる。あくまで自分で降りたのだと言い張って、「理解なかったねぇw」という反応から逃げたかった。

 

今はこれくらいのことしか打ち込むことができない。
これまでの記事が読めるようになったとき、何か書くかもしれない。もう書かないかもしれない。

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