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一昆虫学者の見たペレストロイカ:「ボルスクラ川の森」編

 2022年2月にロシアがウクライナに攻め込んだと聞いて驚き、さらに侵攻経路のひとつが、ベルゴロド州のかつてわたしが滞在していた付近であることを知って、さらにショックを受けた。
 わたしは、ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)でゴルバチョフ大統領によるペレストロイカという改革が進んでいた1990年6月3日から7月18日まで、レニングラード大学に滞在し、そのうちの約4週間はレニングラードから1000 km以上離れたベルゴロド州の実験所で研究をした。レニングラードから実験所に近い駅までは列車で約24時間かかった。この長い汽車旅は、受け入れ教授のステコルニコフと一緒であったが、ロシア語を話せないわたしと英語を話せない彼との道中、さらには実験所に滞在している間、彼と毎日ともにした朝食時の会話は、今思い出しても滑稽であったが、実に楽しかった。
 実験所はボリソフカという小さな町の郊外で、「ボルスクラ川の森」という自然保護林の中にあった。ボリソフカはヨーロッパロシアの中で南に位置するベルゴロド州の中でも南の端にあってウクライナとの国境に近かった。実際、列車ではなく航空機でレニングラードから実験所に行く人は、ウクライナのハリコフ(ウクライナ語ではハルキウ)行きの便を使っていた。当時はウクライナもソ連の一部であり、人々は自由に行き来していた。ボルスクラ川はベルゴロド州から南に流れてウクライナに入り、ドニエプル川(ウクライナ語ではドニプロ川)に合流する川である。実験所には専任のスタッフがいるほか、夏の間はレニングラードから何人もの研究員が来て実験しており、学部学生の野外実習も行われていた。さらには、研究者の子どもたちもいて、楽しそうに実験所の敷地で遊んでいた。わたしはこの実験所で、サウリッチとボルコビッチという2人の女性研究員とともに、この地域に生息するカメムシの飼育実験を行った。
 言論の自由が抑圧されていた時代とは異なり、当時は既に人々が自由に発言できる状態にあった。しかし、サウリッチは、わたしのような資本主義国の人間のことを「昨日まで敵だと言われていた人たちが今日からは友だちだと言われても、わたしはどう対応してよいのかわからない」と言っていた。それでもサウリッチ、ボルコビッチとわたしはすぐに仲良くなり、毎日3人で研究について、またそれ以外の話題についても話をした。
 この時期のソ連経済はとてもよくない状態にあり、ボリソフカの町では、店に買い物に行っても、硬くなったパンとロシア語でメンタイというスケソウダラの缶詰しかなかった。わたしは、朝食はステコルニコフの部屋でごちそうになり、昼食は実験所の食堂で学生たちとともに食べていたが、夜は誰かに呼ばれないときは自分で用意して食べていた。パンとメンタイだけだと栄養が足りないと思うのだが、野菜や果物は店にない。困っていたが、そのうちに、町の広場で、農民と思われるご婦人たちが市を開いているのを発見した。そこで小さいトマトや名前も知らない細い葉っぱ、赤丸大根、アンズの実などを買って食べた。現地の物価から考えると驚くほど高価だったが、わたしにすると助かった。聞いたところでは彼女たちはウクライナから売りに来ていたそうだ。
 電子メールなどもない時代で、事前の打ち合わせもほとんどできず、滞在期間も短かったため、期待したほどの学問的成果は上げられなかった。しかし、一番の収穫はこの実験所で出会った人たちが、大人も子どももとても幸せそうに見えたことである。日本人のわたしの感覚では、経済的に苦境にあると言いながらソ連の人たちの1日の労働時間は短く、夏季には長い休暇をとるのはどうなのかと思ったのも事実である。そして、確かに当時の日本でのわたしの生活の方が、好きなものを自由に食べられたし、電気製品なども便利なものを使っていた。しかし、日本ではドリンク剤の「24時間戦えますか」というコマーシャルソングが流れ、毎日忙しさに明け暮れるわたしたちの方が本当に幸せなのだろうかと考えさせられた。奥さんと2人の娘さんとともに自然の中で暮らす実験所所長のクリボハツキーの笑顔は特に印象的であった。当時のわたしの野帳には「日本に帰ったら、家族とキャンプに行こう」と書いてあった。こうして、まったく違った世界の研究者と交流できたことはその後のわたしの人生にも大きな影響を及ぼした。


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