ドアマットヒロインへの道


根が暗く成り切れない私の思い出つづり



私は人に話すと高確率で相手がドン引くレベルの環境で育った。
だが、元来能天気でお気楽な気質と、物事をいつまでも引きずらずに割とすっぱり諦める性格が幸いして、意外と普通に育ってきた。

そんな私がかつて姉と経験した話です。



ジジイ死んで良くね?


私には2つ年上の姉がいる。
彼女は人もうらやむ美少女だった。

道を歩けば誰もが振り返り
街に繰り出せば芸能事務所のスカウトの嵐
高校時代は校門前に姉を一目見ようとするギャラリーが集まり
下駄箱には本物のラブレター
歩いてるだけで漫画やドラマでしか見た事のないようなドラマチックな告白を受ける事日常茶飯事

そんな姉を、私は別段妬むことなく育った。

それは何故か。

当時の私は漫画『攻殻機動隊』にのめり込み、ただの美少女に対して何の価値も見出せない残念なオタクだったからだ。
身体改造を夢見るヘタレオタクは、バチバチとピアス穴だけが増える見た目だけ強そうな悲しいイキりキッズだった。

バトー大好き憧れの女性は草薙素子、戦えない女に魅力なし。
サイボーグでもない生身の肉と骨の身体を持つ美少女など、あと20年もすれば誰も気にしなくなる只の人だと思っていた。

ちなみにその美少女姉は麻雀と競馬にしか興味のない人だった。
そう、彼女はどこまでもアニメ系ヒロイン気質。
ヒロインになる為に生まれてきたような人だったのだ。
気にしたこと無いけど。


私たちは十代の前半まで父親から殴られて育った。
ある日、何かの拍子に私がブチ切れ父に暴力をふるい、姉は姉で父に面と向かって
「やりたかったらやれば良い。好きにしろよ」
と凄んだ事で、暴力の日々はあっけなく終わりを告げた。


何故かその数年後に父は
「お父さんは良いお父さんだっただろう?」と
果てしなく勘違いをしたクソ発言をかました為に、裁判所で私たちと永遠の別れをする事となった。
私は父に、ちゃんと
「私たち家族に父親はいない」
と面と向かって教えてあげた。

父を置き去りにして裁判所内を二人で走った日の事は、昨日のことのように色鮮やかに思い起こせる。ため込んだ便秘が解消した時以上のすっきり心晴れ渡る日だった。

あの日、私たちは心の底から笑った。
満面の笑みを浮かべて霞が関の裁判所内を走り抜ける姉妹と言う、なかなかこっぱずかしい絵面を世に晒してしまったが、それも含めて良い思い出だ。

明るく書いているが、実際は結構重くてしんどい日々も多々あった。


晩年、父は1人寂しく孤独に死んだ。

縁を切ったにも関わらず、胸糞悪くも私は病院へと呼び出された。
ポーズだけでも悲しいふりをしてみようと頑張ってみたがやはり無理だった。

と言うか、当時3歳だった我が子が、私の父ではない別のお年寄りの寝顔を見ながら
「死んだ?!」
と大声で確認を取ってきたため、そばにいた看護師さんと一緒に
「「ぶっふぉ!」」
と噴き出しながら死んだ父との対面を果たした。


それはもう普通に明るく楽しく遺産はちゃっかり受け取った。

それが私たちなりの『ざまあ』だったのかも知れない。


今現在、親からの暴力で苦しむ人
誰か一人でもこれを読んで勇気付ける事ができたらと切に願う


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