ミス・サイゴン2020に向けて

ミス・サイゴン新演出版からのミス・サイゴンファンが書く、エンジニアという男そしてキムが「この世」にかけた呪詛についての考察です。
ここまできてネタバレもなにもないだろうってことで何も考えずに書いています。キャスケも出たしみんなそろそろチケットについて考える時期だよね。(2020/1現在)

エンジニアという男について
市村正親さん・駒田一さんのエンジニアしか観れていないので、このお二人の役作りの違いについての考察となります。

まず、市村正親さんのエンジニア。
2012年、2017年と観ております。(いずれも大阪)
とにかくギラついているという第一印象。
「金!女!地位!名誉!」という欲が感じられる一昔前の「こうあって当然だろう」な男性像に重ね合わせるとしっくりくるということに最近気が付きました。初演から変わらないのかなあこのつくりは。
渇望していたアメリカンドリームは最後の最後で潰えるし、だからこそアメリカンドリームごと哀しい場面に思えて仕方がない。
自分の渇望している夢をかなえるためのキムとタムであって、夢が先であの親子は後なのかな、どうなんだろう、でも先に来るのは夢のほうだろうな。本能的な何かっていうかそういう役作りに見える。
初演のご時世反映してるのかなあ。これは長くミス・サイゴンに関わっているキャストにしか出せない色だ。

次いで、駒田一さんのエンジニア。
2014年、2017年とみております(こちらも、いずれも大阪)
初演の2014年の制作発表動画とかみると、苦戦してたんだろうなぁというのが感じられてそれはそれでよい。
駒田一さんご自身の癖(私はそれが結構好き)とエンジニアという役柄をフィットさせる隙間にあるものはなんだろうねと思った時、やはりキムとタムに仮託した夢ではないだろうかと思うのです。
アメリカンドリームでエンジニアは自らの生い立ちを歌うけれど、駒田エンジニアはタムに自らを重ねてそうで、アメリカに渡ることでタムひいては自分を救おうとしている気がした。
しかし仮託した夢は最後の最後に潰えてしまう。
アメリカに見た夢を叶えることで、自分も、タムも、キムも救いたかった。だから最後の絶望が色濃い。
あとね、結構常識人だと思うんだよ駒田エンジニアは。市村エンジニアのようなぎらつきとは違う持ち味、他の作品で真ん中じゃないときに感じられる「いい味出してる脇役」のまま真ん中にきたらこうなったのが常識人感があるのかな。

「命をあげよう」について
楽曲単体で取り上げられることが多い印象ですが、これもう歌詞自体が「キムが生きる世界」に対しての強烈な呪詛じゃん…って感じてから冷静に聴けなくなった。

美しい旋律と秀逸な訳詞、若いキムが歌うということで「母性」で語られ美化されるようにも思えるけれど、残せるものが「命しかない」からこそ語れる言葉であって、「命しかない」が故にタムに全てを託して自分は死んでしまう。
死が最大の復讐とは考えてないと思うんだよね、ただただ、タムが今後安心して暮らせる環境が確保できたので「自分の役目は終えた」だから消える、それだけかなぁ、それは果たして「母性」で語っていいものなのだろうか。
「生まれたくないのに 生まれ出たお前を 苦しまないように 命をあげるよ」というフレーズを母性で美化していいんですかね。私はそこに引っかかってしまう。
タムを生かすことで「この世」にかけた呪詛、それをクリス、エレン、ジョン、そしてエンジニアは背負ってこの先生きていくのかと思うと、重いものが残る。
呪詛って自己犠牲で美化されるんですか。
そしてこの呪詛が、ベトナム戦争後のあの時代ではきっと珍しいものではなく、たくさんのキムがいてタムがいてクリスがいたんだろうね…ごくありふれた話をクローズアップしただけで、そこに何を感じるかは観る者次第。

究極の愛だとか、命をかけて貫いた愛だとか、そっちを表に出したほうがウケはよさそうなもんだけど、そろそろそうじゃない角度からのミス・サイゴンを語っていきたい。
そして、あなたから見た「ミス・サイゴン」を教えてほしい。
なのでこの文章を書きました。
しんどい語りにしかならないですけど、やっていきましょう。

目に留めていただき、読んで頂き有難うございます! この文章から何か感じるものがあればうれしく思います。