Episode 1 記念日

この世界で私しか覚えていない
2人の記念日

全てが始まったあの暑い夏の日

私は26才だった
あなたは41才、同じ職場の上司だった

直属ではないから普段仕事は一緒にしないし、評価される関係性でもないから、それまでは軽い気持ちで何度かランチしたりした

あの日は初めてのディナーで、なぜか映画まで観てしまった
タイトルはもう憶えていない
ただ、観終わった頃にはもう夜遅い時間になっていて、帰る前に、東京湾の見える通りのベンチに座って少し話そうって言われた

周りはほとんど人がいなかった
優しい夏風に静かに頬を撫でられながら
それまで話したことのなかった
お互いのプライベートの話をした

あなたは独身で、付き合っている相手は居ないと言っていたね
私は別の人からプロポーズされていたからそれをあなたに正直に言った

あなたはそれまで私に向けていた視線を逸らし、夜の海を見詰めながら、良かったね、結婚するの?と聞いてきた

私は、たぶん、って答えた

少しの沈黙の後
あなたは突然私を抱き寄せて唇にキスをした
それまで付き合ってもいなければ手も触れたことがなかったのに

私の体も顔もただ固まって、思考が停止した
あなたの唇の燃えるような温度と
音が聞こえてきそうな位激しいあなたの心臓の鼓動を感じるしかできなかった

そんな私にも気付けない程に
あの時あなたも緊張していたよね
暫くして唇を離したあなたは私に恥ずかしそうに、ごめんって言った

帰りのタクシーの中、気が動転して何も喋らない私の手を握って、あなたはとっても嬉しそうな笑顔で今度いつ会えるか聞いてきた

私はまた連絡すると言って
約束をしないままあなたと別れて家に帰った

家に帰ってもまだ気が動転していた
でも、胸の中で何かが確かに動いていた

あの日のことを
あなたはもう1ミリも憶えていない

あのときのあなたは
たぶん天国に行ってしまったのだろう
天国から、今でもあのときと変わらない笑顔で私のことを見守ってくれていますか?
例え二度と温もりに触れられなくとも

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