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"父なき社会"日本


 記念すべき初回は『河合隼雄著作集10日本社会とジェンダー』を読んで考えたことをアウトプットする。
 父性とは何か、自分自身がよくわかっていないので、書き出してみる。この本を読むまで、男らしさと言われると、肉体的な強さとか精神的な忍耐力を思い浮かべるし、父性と言われると、“昭和の家父長制的な”、“普段は寡黙で、息子を暴力で押さえつける”ような父親像が浮かぶのだけれども、河合さんによるとそれらは父性ではないらしい。西洋で発達している父性を説明するために、以下に本書で引用されている文化人類学者の谷泰さんの『「聖書」世界の構成論理』の内容を記す。


 乾燥したイスラエルの土地の放牧では羊の群れを統率することが必要で、それには先導する一匹の雄とそれに続く雌と子どもという編成群をとる。この理由は群の中に雌雄が混交している場合、交尾期に群の統率がとれなくなるためである。これを維持するには少数の雄を残して、それ以外の雄を全て屠殺せねばならない。ここに選ばれた雄と、間引かれて殺生される雄が出てくることになる。


 ここにおいて河合さんは重要なことが二つあると述べる。一つは羊の群れ(自然)をコントロールすること。もう一つは選別に選ばれなかった羊は殺すという合理的精神である。西洋文化はキリスト文化に大きく支えられているが、ヨーロッパで発展した近代科学はこの厳しさによる合理的精神、強力な切断力ゆえであったと言う。科学は自己と対象を切り離して“客観的に”観察することで発展してきたということは了解されることだと思う。河合さんは母性原理を包含すること、父性原理を切断することであると言い、特に父性原理については自己と対象を切り離すことによる合理的思考、それを実行する力、事態を言語によって把握する強さを挙げている。ここで『河合隼雄著作集2ユング心理学の展開』で言及されている、L・ヴァン・デル・ポストの『影の獄にて』に登場する第二次世界大戦中の大日本帝国陸軍の一介の軍曹であるハラと日本軍の捕虜となったイギリス人ジョン・ロレンスとのやりとりについて分析したい。

 ロレンスの収容されている捕虜収容所には日本の鬼軍曹ハラが君臨しており、ハラがその指揮をとっていた。ハラは必要とあらば捕虜を処刑し、暴力を振るったが、ロレンスはそれが彼個人のものではなく、「ああいうことをやっているのは彼じゃない。彼の中の日本の神々がやることなんだ」として理解していた。そのように理解していたロレンスにハラは友情のようなものを感じ取っていた。ある晩にハラはロレンスを呼び出して、おしゃべりに興じているうちに捕虜になってまで生き延びているのが恥ではないのか、とロレンスに尋ねる。この問いに対してロレンスは「われわれの見解では、<恥>ということは、危険とおなじように勇敢に耐え、生きぬかるべきものであって、卑怯にも自分の一命をたつことで回避すべきものではないと思う」と言う。そこでハラは感情的になり、ロレンスの言うことを無視しようとしてその場面は終わる。
 その後終戦を迎え、戦争裁判においてハラは死刑宣告を受ける。ハラの処刑の前日にロレンスはハラの面会の願い叶って牢獄にいるハラを訪ねる。そこでハラは日本の軍曹として、上から命じられる拷問などやるべきことをやってきただけであるのに、しかも上から命じられるよりもかなり軽減して、なぜ自分は死ななければならないのか、と合理的な問いを発する。軍隊に入った時から個人としての死を決めていたにもかかわらず、「なぜ」と問うた。その問いにロレンスは「敗けて勝つという道もあるのだ。敗北の中の勝利の道、これをわれわれはこれから発見しようではないか」と答える。ハラはその回答に感動して「ろーれんすさん、それこそ、まさしく、日本人の考えです!」と言った。その後ロレンスはハラを抱きしめてやらなかったことを後悔し、牢獄に再び向かうが時はすでに遅く、ハラは処刑されていた。

 恥についてのやりとりにおいて、ハラの行動は極めて母性優位社会的であると言える。ハラの問い自体がルース・ベネティクトが『菊と刀』で論じた日本の恥の文化であるので興味深い。それはさておき、もし同じ西洋諸国の軍人なら自分の考えていることを理路整然と語るであろうし、ハラは自分の考えを言語化することもなく(個人として生きていないので当然なのだが)、感情的になり、無視する態度を見せた。その一方でロレンスは西洋社会における父性を体現した、合理的な考えを述べている。
 場面は変わって牢獄での面会の際、彼らはお互いに触れ、お互いに自分の影を見せ始める。ここで言う“影“は自分の生きてこなかった面であり、人間に備わっているものとされる。ハラの極めて合理的な問い、「なぜ」と問うことによって言語的に把握しようとすることはロレンスの父性原理によって触発された日本の母性優位社会で開発してこなかった己の父性という影であり、ロレンスの「敗けて勝つ〜」という言葉は日本的なものである(これが日本人の考えかどうか自分がよくわかっていないのだけれど、多分負けは負けなんだから、勝利ではないってのが合理的な考えってことなんだと思う。日本社会にいる自分がこの言葉が日本的であるかどうかわからないという事実が日本的であることの証左なのかなとも思う。外から見ないといかに変わった民族誌的奇習を持っているかがわからないということ)。
 河合さんは『河合隼雄著作集2ユング心理学の展開』において東洋と西洋における、自己の影を実在の人物に投影させた例として挙げているのだけれど、私はこれを母性原理と父性原理で見たときに、腑に落ちるところが大きかった。

 私が『影の獄にて』を父性原理と母性原理で読んだ際、日本において高尚な文学作品として広く知られている「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」を思い出した(私はここまで散々インテリゲンチャを演じてきたので、「あいつ、サブカルにも通じてんな」と思われたと思う)。あの物語において、主人公比企谷八幡が最後に結ばれるのは雪ノ下雪乃でないはずはないということを書いてみる。物語の初期において、雪ノ下は冷酷無慈悲な合理的な判断下す女の子として、主人公比企谷は母性優位社会日本における“永遠の少年”として描かれる。この時点の雪ノ下は自身のアニムスを投影する先が無く、アニムスにほとんど乗っ取られている状態である。“永遠の少年”はユングが提示するアーキタイプ(元型)の一つであり、父性原理によって切断されることなく、母子癒着から離れられず、弱々しいことを自ら示したりする。雪ノ下の冷酷無慈悲、合理的思考は後から見返すと「雪ノ下ってこんなやつだったっけ」と思うほどに物語後半とのパーソナリティ(深層心理学的に一人の人間に一つの決まった性格という考えはないと思われるのでここで性格という言葉は使わない)が違う。物語の結末として、雪ノ下と比企谷が結ばれた際、両者のパーソナリティが物語初期と逆転しているのである。雪ノ下は包含すること(母性)を獲得する。雪ノ下が母性原理を獲得するのは主人公比企谷に自己のアニムスを投影する過程においてである。この物語はほとんど比企谷の「合理的」思考(自分が犠牲になれば周りは、問題は、ハッピーに解決するという曲がりなりの合理性なのでかっこつきではあるが、)を実行していく過程を見せられていると言えると思う。T Vアニメ1期最終回の文化祭の屋上のシーン、修学旅行・嵐山の竹林の道に象徴的に描かれている。ところでこの物語は由比ヶ浜と雪ノ下のどちらとくっつくのかという話に読み手の注意を向けさせているが、由比ヶ浜は物語初期から一貫してそのパーソナリティが変わっていない。つまり由比ヶ浜は最初から“トリックスター(道化)“だったのである(トリックスターについては山口昌男さんを読みましょう!)。トリックスターは両者をくっつけたり、雪ノ下の絶対性に柔軟性をもたらしたり、T Vアニメ3期において主人公比企谷の父性を引き出すのに貢献している。奉仕部の教室において、由比ヶ浜が両者の間にいることからもそのトリックスター性が窺われる。トリックスターは両性具有性ということが言われるが、由比ヶ浜の両性具有性ついては今後も探ってみたい。以上のことから、異性結合として自分の影を相補し合う、父性原理と母性原理をそれぞれ獲得した、比企谷八幡と雪ノ下雪乃が”男女関係“になるのである(好きな異性のタイプはと聞かれて自分に持っていないものを持っている人と答える人がいるが、その通りなのだ!)。
 以上で今回のnoteアウトプットを終了する。なるほどなるほど男としてみられるためには羊を屠殺できればいいのね。いや知らんけど。

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