ノイズ、連続現像、直観像④

4 意識の息苦しさ

哲学者のニーチェはいう。

私たちが意識するすべてのものは、徹頭徹尾、まず調整され、単純化され、図式化され、解釈されている。
(『権力への意志』477)

僕は、「柳の樹に幽霊を見る訓練」について考え、試行錯誤しているが、基本的な困難はここにある。「徹頭徹尾、まず調整され、単純化され、図式化され、解釈されている」のとは逆の方向へいかなければいけないのだ。僕は「遡行」と表現する。

さいきん、ふと、気づいたのだが、ロールシャッハのテストのイラストがある。あれは、極めて、「フラクタル性」が高い図形なのではないのだろうか。
 
精神科医の中井久夫先生はロールシャッハテスト用の画像を名人芸として表現する(『アリアドネからの糸』)。あの図はロールシャッハ本人が描いたらしい。中井久夫先生は、ロールシャッハテストの起源を、シャーロック・ホームズのようにエッセイの中で再構築する。が、僕はロールシャッハテスト用画像は簡潔に書かれた本質的には「フラクタル」であると思っている。ロールシャッハはどこかでそれを直感的に理解していたのではないだろうか。
 
…といっても、僕の「フラクタル」という定義はゆるくて、「拡大してもだいたい類似したものが見える」(繰り込み群によってそれほど本質的な密度が変わらない)ぐらいの意味である。この意味で、「ノイズ平面」と僕が呼んでいる観察対象は著しい。つまり、「拡大」がそもそもできない。どのように見ようとも「スケール」が変化しない。それなのに、三次元空間に存在していて、細かい部分の観察も不可能ではない。
 
哲学者のジル・ドゥルーズの「襞」や「リゾーム」といった難しい概念も「フラクタルの一種だろう」と考えられないだろうか。
 
そして、「フラクタル」はスクリーンになって「現実」を映し出すのである
 
専門家に笑われるかもしれないが、対数螺旋やランダムノイズを僕は、「ゼロ・フラクタル」と呼んで、フラクタルの集合の中のいわば「ゼロ」要素と見なしている。
 
こうすれば無理やり、自分がノイズの向こう側に視覚像を見ていることを、「フラクタルのノイズスクリーンに映る運動感覚像」を見ることができる、ということができるだろう。(ぐちゃぐちゃなノイズに時折フラクタル様の模様が見えたり、視覚像が映し出されたりするという経験をなんとか納得したいのだ。)

いま書いたいわば「公式」によって、僕の直観像観察の方法論がこの文章だ。
 
こんなことを書いているのは、僕が、「体験を伝達する」ということに次第に疲れてきたというのもある。僕は「その文章の内容はその文章の中で完結している」という文章の書かれ方が好きだ。いちいち前提知識を必要としたり、たくさんの注釈がついていたりする文章が苦手なのだ。だから、僕は、僕のノイズや整体気功研究をそういう「主観的体験記述」として書いてきたのだが、さいきんは、「この体験はこの概念とこんなふうにつながっている」「この考えはこの思想家のこの考えと関係している」といった、いわば「注釈的記述」をできる限り入れて書くようになった。

しかしだからといってなにがどうなるだろうか、という思いもある。

最後にこの条件を満たしているときの、メディア空間、つまりインターネットや携帯電話を利用した訓練は可能であろうか、という点について自分の考えを書く。
 
僕は、様々な疑心暗鬼や過剰妄想、陰謀論的解釈をそれらのメディアが賦活することを知っている。しかし、そのとき、「意識の統一性が失われ」無意識の多義性と非言語的世界の広がりが生成しているのか、といえば、必ずしもそう言えないのではないか、と思う。僕らのコミュニケーションは集中的にインターネット上に流されるようになってきた。しかし、しかしいま、こういう「集められたから更に集まってくる」世界の話をしているのではない。そういう「集められたから更に集まってくる」結果、すかすかに、ばらばらに、無関連に、無垢に、取り残されていく世界について話しているのだ。携帯電話のコミュニケーションも大体は同じような場所をぐるぐる回るようになる。なぜなら、話題の材料はいつも同じ「電話口の空間で起こること」でしかないからだ。そして、携帯電話依存症の人は結局様々な自分の個人的な情報を話すようになる。話題がないからである。
 
いずれにせよ、この探求はまだ入り口に過ぎない。
 
中井久夫先生は、ロールシャッハテストの実施過程は夢を見る体験に似ていると指摘する。(『アリアドネからの糸』)

さらに、こう述べる。

ロールシャッハ過程は前意識に湧き出る多数の似たものの中から一つを選んでこれを言語化するという、記号学で言えば、『パラディグマティックな』過程である。これは、文章を作るときに、いくつかの形容詞から対象にもっともぴったりした一つを選ぶという過程と同じである。…

『アリアドネからの糸』

中井久夫先生のこうした思索は、「私の日本語雑記」で、絶対感覚の考察として書かれてあり、自閉症者の感覚知覚、または詩人の特殊知覚と比較される。  

この記述から、いわば典型的な、表現を吟味する小説家がウンウンうなっている様子を思い浮かべてはいけない。もっと異なった過程である。小説は全体的な構造や流れが秩序立てられている。しかし、『パラディグマティックな』過程が優位の場合には詩になる。あるいは、同じことだが、自由連想になる。  

だから、僕は、「非言語的状態」を強調しながらも、例外的なものとして、詩や自由連想を特別な訓練として、ここで挙げることができるのだ。自由連想で小説もエッセイも文学も哲学も作り上げることはできない。しかし、僕らは「詩の中でのみ」意識から開放される。詩人は自由のために「積み重なっていく蓄積」を捨てる。詩を書く経験を重ねて上手になっていくことがない。詩の経験はギャンブルのように、財布を持たない、裸だ。経験は役に立たず、ミューズだけが頼りである。  

そして、僕は、詩や自由連想について話題を移した瞬間に、僕自身が、「そんなものの手法を言葉で説明し表現しようとすることが間違っている」といういつもの袋小路に陥る。


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