ホルガ村には5つの季節がある。(ミッドサマーネタバレ考察)

概要

ホルガ村の春夏秋冬を人の人生に当てはめる考え方には、もう一つ「死んでいる状態」(仮に冥界と呼ぶことにする)があり、それを含めると人の人生は90年周期で輪廻転生することになる。

これは一種の生命体ともとれるホルガ村自身についても同じであり、90年に一度の祝祭とはホルガ村が冥界から春に移り変わることを寿ぐ生誕祭という側面もある。

このことに照らし合わせて考えると、毎年の夏至祭・冬至祭(以降、小祝祭)、90年に一度の祝祭(以降、大祝祭)に加えて、18年に一度の「季節の移り変わりを祝う祝祭」(以降、中祝祭)があり、これがホルガ村の維持において重要な役割を占めていると考えられる。

考察の背景

ミッドサマーの考察を見ていると、「90年に一度とか維持できるわけないじゃん。ペレの両親も焼け死んだって言ってたし、毎年やってるでしょ」と多くの人が思っているようである。しかし、毎年あれだけ派手に火を起こし、生贄を外部から捧げている村が現代に存続可能とは到底思えない。極端に閉鎖的な村というわけでもなく、外部と交易などをしている村において、一年に二度の儀式を隠蔽することは非常に困難である。しかしまた、90年に一度の祝祭において、あれほどスムーズに儀式がすすむというのもまた理解しがたい。これらの矛盾と、「72年で自殺」という中途半端な数字について、簡潔かつ説得力のある答えを発見したので、深く考察することとした。

「5つの季節」について

作中、ペレが壁画の意味を聞かれて「人間の一生は四季にあてはめられて18歳までが春~~」という感じで説明をするシーンがある。ここでは春夏秋冬それぞれ18年で72歳まであるという旨の説明を受けるが、72歳というのが中途半端な数字だと思った人も多いのではないだろうか。実際、その根拠は作中には出てこない。そしてそのシーンの後、飛び降り自殺の後が重要なのである。

混乱する男女にこのような説明がなされるのである。

「彼らは命を善意で明け渡し、そしてまた生まれてくる」

即座に生まれ変わるわけではなさそうである。考えてみれば72歳になる前に病気や事故で死亡する人だってそれなりにいるだろうし、生まれる数と死ぬ数がちょうど同じ年のほうが少ないだろうから、どうしたって死んでるタイミング(転生待ち)は存在するのである。これが18年間でないと考えるほうが、無理筋ではなかろうか。

これまでの人生が18年間隔で移り変わってきたように、死んでいるのも18年間で、その後にまた生まれてくる。こう考えると人生の周期が90年となり、90年ごとに大祝祭を行うこととも一致する。

ペレは単に壁画に書いてなかったし、面倒になるのがわかっていたから説明しなかったのだろう。

ホルガ村の季節サイクル

そして、この映画に出てくる一番重要な生物が、ホルガ村である。住民たちは意識を共有し、まるで村の手足であるかのごとく統率されて行動する。まさに一心同体であり、大祝祭とは「冥界から春へと移り変わり、再び生まれたホルガ村という生物の生誕を祝する」という意義があるのだろう。そう考えるのであれば、つまり90年の根拠が季節サイクルであれば、他の季節の変わり目、つまり18年ごとに春から夏、夏から秋、秋から冬、冬から冥界へ移り変わる祝祭が、大祝祭までとは言わずとも毎年の祝祭よりは盛大に祝われるというのは必然であると言える。これが中祝祭である。

恐らく、毎年生贄を捧げてはいないホルガ村の住人たちが、いけにえを捧げるのは中祝祭と大祝祭で、中祝祭では生贄の数も大祝祭の半分以下であろうと思われる。18年に一度であれば、隠蔽難易度は毎年やるより圧倒的に低い。

そのうえで、中祝祭を行うメリットはこんなにも存在する。

・大祝祭のノウハウを伝承する。90年に一度なんてやり方が伝わるわけないと皆さん思われているでしょうが、規模の小さい大祝祭を18年に一度やっているとするなら説明がつく。

・秘密を共有し、内部告発を防ぐ。カルトの生贄や儀式には、秘密を共有し造反者を出さないようにするという意味もあるが、90年に一度では「その時生まれてなかった/子供だった」という言い訳が出来る人がたくさんできてしまう。その点18年に一度なら、全員で秘密を共有できる。

・「夏の季節」に外に出る前に、反抗的な人を処分できる。あんな村から「夏の季節」でたくさん人が出ていったらバレるのではないかと思うが、18年ごとの中祝祭で外に出る前に生贄にしてしまえば、夏の季節で出ていく人は忠実な人ばかりになる。

また、ペレの言った「僕の両親も火事で死んだが、共同体が育ててくれた」という発言にも矛盾しない。大学院生なので27歳とすると、9歳のころに冬→冥界の中祝祭で両親が生贄になったということになる。大人を止める力があるほど成長していたわけでもないし、かといって記憶があいまいになるほど幼児だったわけでもない。

あと、中祝祭が大祝祭のいわば予行演習であるとすれば、「カメラで撮ってもいい?」「控えめにね」のくだりにも納得がいく。以前の中祝祭は18年前だから1992年だ。カメラ付き携帯電話が出てきたのは2000年代初頭、つまり「携帯で取られてインターネットで拡散される」という危機管理意識は、ペレ等最近外の世界に出た人でないと持っていない。ペレは単純に、「後で始末するし、ここは圏外だからいいや」と思っていたのかもしれないが、ほとんどの村人が「スマホで撮られた!まずい!」と思わないのは、元よりスマホで世界とつながるという感覚がないためであろう。(そうでなければ、儀式も撮影厳禁でないと説明がつかない)

逆に言えば、スマホの圏外がどんどん縮小し、ある日突然スマホがホルガ村でも使えるようになって、ホルガ村がSNSで炎上する日もそう遠くないのかもしれない。

まとめ

・作中では90年に一度の祝祭と説明されているが、実際は下記の通り3種類の祝祭が存在する。

1.小祝祭(毎年)

やること:メイクイーンの選定 お祝い

2.中祝祭(18年ごと)

やること:生贄(少な目) 大祝祭に向けたノウハウ共有 造反防止の秘密共有 不穏分子を春の季節のうちに処分

3.大祝祭(90年ごと)

やること:生贄(9名) 劇中で見た通り

こうしてみると中祝祭がいかに村の運営にとって合理的かわかりますね。

今後の考察内容

で、結局ホルガ村が土着信仰なのか信仰カルトなのか、そこはまだはっきりしない。個人的にはもともと穏やかな土着信仰であったものが何かしらのきっかけで極端なカルト的になったのではないかと思っているが、確証はない。前回の大祝祭は1930年であり、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間である。スウェーデンは両大戦で中立を保ってはいるが、義勇兵などもそこそこおり、自衛のための国民軍なども招集しており(Wikipedia知識)、全く無関係ではいられなかった。もしかすると若者が大量流出し、戻らなかったことが何らかの影響を及ぼしたのかもしれない。あるいは戻った若者が麻薬を持ち込んだのかも。ただここら辺は確証がなく、追加の考察を待つほかはない。

というか中祝祭だって作中全く触れられてないが、あると仮定するとあらゆる物事がきっちり説明できすぎて、あるとしか考えられないんだよな...

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