見出し画像

レイドバックビートに輝き 2

 その影の形や動きを見ながら、今日をどう乗り越えるか考えてみると、まず必要なのは洗濯機でも冷蔵庫でもコップでも机でもなくて寝床だと気付いた。新宿のアディダスの横にある三菱東京UFJ銀行でお金を下ろそうと残高照会のボタンを押した。引っ越しの初期費用を全て払ったので、残高は108,551円だった。高校を卒業してからずっと貯めてきたお金が音速で消し飛んでいる。どうにか、あと一ヶ月か二ヶ月ぐらいは暮らせるか。寝床はクレジットカードで買うことにして、ATMコーナーを出た。南口の方に向かって歩く。ドン・キホーテや立ち食い蕎麦屋、ゲームセンターなんかの間の道を、ネオンサインを猛烈に浴びながら甲州街道の下に入る。地面がテキトーなコンクリートから綺麗なタイルに変わって、喫煙所にいる大人たちはみんな暗い色の服を着ていて顔色も悪い。煙草のせいで全てがうまくいってないように見える。NEWoManの横を、賑わうブルーボトルコーヒーを見ながら進んで、高島屋との間にあるエスカレーターに乗った。鈴古さんはニトリの前にいた。今日もジーパンとジージャンだった。iPhoneを触ってもいないし、イヤホンをつけてもいない。荷物も持っていない。本当に、ただただ立っていた。鈴古さんの後ろで日が暮れる。紺色の空に金色の光が炸裂して、風は緑で飛び交う塵は薄紅色に静かに輝く。たくさんのビルとやたら長い飛行機雲が動かない。下を通る線路に、新幹線が入ってきて金属の音を響かせた今。誰かと待ち合わせをする時、自分が先に着いていたら俺は絶対に音楽を聴きながらツイッターを見たりするから、「凄いっすね」と言った。ニトリに入った。
「何が?」
「荷物ないんすか」
「ない」
「なんで」
「嫌い」
「あー、そうでしたっけ」
「なんなのそうでしたっけって」
「いや、そうだったかなーと思って」
「そうだよ」
 でっかい柱に貼られたフロアガイドの前に行った。
「何買うの」
「布団す」
「あー、へー」
 エスカレーターで地下に降りて、たくさんの布団を見た。どれも微妙だった。自分の中に、布団を選別する基準みたいなものが予想外にしっかりとあって、結局買わなかった。
「あのネイビーのやつ良かったじゃん」
「いやまあ、かわいいんですけど、うーん」
「高い?」
「うーん、なんかなぁ」
 駅のホームが放つ大量の白い光や、甲州街道を走る車のブレーキランプが交錯して、その中を俺と鈴古さんは歩いている。お金がないから歩いて帰りたい、鈴古さんは電車で先に帰ってていい、と言うと、「おいおい」と鈴古さんは胸ポケットから煙草を取り出した。
「めんどくさっ、超遠いじゃん」
「いやだから鈴古さん電車でいいよ」
「いやそういうことじゃないから」
「そういうことだろ」
「ここで急に別行動なるの結構キモいから無理」
「キモいかな、別にキモくないと思う」
「それは伝助くんがそう思うだけで私がキモいかどうかは私が決めるから」
「確かに」
「うん」
「どうしよう」
「歩くか」
「うん」
 阿佐ヶ谷の駅に着いて、二人で「お〜、ついた」と感動していると、凄い背の高い黒髪のギャルが鈴古さんの肩に触れた。鈴古さんが「ん?」と振り返ると、彼女は「リンコじゃん」と言って、鈴古さんは「おー、沼田だ」と他人事みたいに言った。
「何してんの」
「新宿から歩いてきた」
「何それ、やばっ」
「元気?」
「えー、元気元気。リンコ元気?」
「元気だよ」
「阿佐ヶ谷住んでんの?」
「いや私、代官山」
「マジで、超オシャレじゃん」
「うん。そだよ」
 変な会話してんな、と思いながら、俺はちょっと距離を取って、煙草に火をつけた。吸いながら、南口の広場に植えてある大きな木を見ていた。風が吹いて、たくさんの葉っぱが揺れる。こんなのずっと見てられるな、と思った。ちょうど一本吸い終わったぐらいで、鈴古さんがこっちを向き、「沼田が布団くれるって」と言った。
 沼田さんは阿佐ヶ谷が地元で、商店街の中にある喫茶店が実家だった。鈴古さんとは大学の同級生で、今日数年振りに会ったらしかった。数年振りに会ってあの会話をするこの二人は仲が良いのかなんなのかよくわからないな、と思いながらありがたく布団を受け取った。強烈な赤地の、花柄の布団セットだった。光沢が入っていて、それはいつも窓から入ってくる朝日を跳ね返していた。
 布団が手に入った。
 俺が敷き布団を持って、鈴古さんが掛け布団を持って、夜の商店街を歩いている。
 部屋の真ん中にそれを敷くと、一気に「部屋感」が出てきて、二人で「お~」と言った。鈴古さんが「コンビニ行ってくる。何かいる?」と聞いてくれて、緑茶とヨーグルトを頼んだ。鈴古さんはエアフォースワンのかかとを踏んだまま玄関から出て行った。夜で、静かになった部屋に一人立っていた。白色蛍光灯の白い光が白い壁紙にぶつかって、部屋の全部が白すぎて、ちょっと嫌だな、と思った。布団の次は電球を買おう。オレンジ色の光にしよう。布団の上にあぐらをかいて座った。首の後ろを右手で触って、目を閉じた。俺はすぐに思い出してしまう。苦しいことや嫌な思いを、まだ苦しいか、まだ痛いか確認するために頭の中でそれに触れて、そして当然のようにまだ痛い。それは響子ちゃんのことだ。そして目を開けるといつも、もうどうでもいいというか、投げやりな気持ちが増大していた。
 外から、聴こえてきた。
 ドッ、ダッ、ドッ、ダッ、というビートが。ドラムの音が。それはNasの『Hip Hop Is Dead』だった。もちろんこの時はNasなんか知らないから、夜の静けさに浮かぶその音をただ不思議に思って、窓を開けた。目の前の公園に、昨日と同じようにだぼだぼの服を着た男たちが集まって、円陣を組んでいる。太った、緑色の服を着た男が持っているiPhoneからその音は流れていた。順番に、各々、何か喋っている。でもそれはただのお喋りというよりか、音に乗りながら喋っているようだった。「ラップ」というやつだった。彼らのその言葉を聴いていると、全員が語尾の音を揃えようと意識しているのが伝わってくる。蛍光イエローのニット帽をかぶった背の高い人が、「変える現実」と言った後に「起承転結」と言い、「RHマイナス」「すぐに献血」「紙と鉛筆」「シャープペンシル」と韻を踏んで、あっ凄い、と思ったら、円を組んでいる彼らも俺と同じタイミングで、手を上げたり「ヤ~」と言ったりして、賞賛していた。一段落したのか、音が止まって、彼らは何か小声で喋り始めた。そこで俺は「すいませ~ん」と大声を出した。全員がこっちを向いた。今ならわかる。それが流人くん、集巡くん、たっちゃん、文長くん、ハルタくん、三郎くん、の六人だ。
「それ何の曲ですか~」
 流人くんが微笑んで、「ナズだよ」と言った。「ナ? え、ナズ? ナズ?」
「そう。ナズ。エヌ、エー、エス、でナズ」
「はーい、ありがとうございます~」
「やる? 一緒に?」
「え? なに?」
「サイファー。一緒にやる? 来なよ」
「やる~」
 玄関で靴を履いていたら、鈴古さんが帰ってきて、「え、どこ行くの」と驚いた。
「そこの公園」
「なんで」
「なんか、お喋りする」
「は?」
「すぐ戻ってくる」
 と、俺はアパートの階段を降りて、裏手の駐輪場を横切って公園に入った。緑色のコートは踏み心地が良かった。一個だけある街灯の下に白い光の三角錐ができていて、そこにみんながいる。その優しいヴェール以外は真っ暗で、今俺はそこに入ろうと、歩いていた。
 さっきとは違う音楽が流れている。
 集巡くんが「きたきた」と言って、たっちゃんが笑った。流人くんが「ヤ~」と言って手を差し出してきたので、握手か、と思って俺も手を差し出すと、パチン、とタッチをされた。そして握りこぶしを突き出してきた。反射的に俺もグーを見せると、そこに拳を合わせて、あ、そういう挨拶か、と気付いた。流人くんはタートルネックを着ていて、でもそれはタートルネックじゃなかった。刺青だった。集巡くんとも同じように、タッチとグー、の挨拶をして、「なんかテキトーにやってるんで、テキトーで」と言ってくれた。そして、たっちゃんとも。たっちゃんはこの時からずっと、シシシ、と前歯を見せるような笑い方で、何も言わずに笑っていた。さっきの、蛍光イエローの帽子をかぶっていたのがハルタくんだった。太った、緑色の服を着ているのが三郎くんだ。文長くんはキャップの上からパーカーの帽子を深く被っていて、顔が全く見えない。全員とタッチとグーをやったけど、集巡くん以外の誰も、特に何も言わなかった。
 時計回りに、順番に、十六小節ずつ即興でラップをしていて、だけどこの時の俺は小節を数えることも韻を踏むことももちろんできないし、そもそもこの集まりが一体なんなのかもわかっていなかった。そしてそれがわかった今でも、そんなことはあんまり重要じゃないと思う。
 俺の右にいた文長くんの番が終わったらしく、流人くんが煙草を吸いながら、「お兄さんなんか喋って」と言った。かかってるビートは『紫煙』だった。
「これ何言えばいいんですか?」
「なんでもいいよ」
「日記みたいな感じっす」
「別に韻踏まなくていいっすよ」
「あ、はい」
 と、俺は言って、ちょっと考えた。今日なにしたっけな。そして息を吸って、喋り始めた。

「えー、あー、はじめまして。
 えー、夏川伝助です。
 今日は新宿に行った。ニトリに行った。鈴古ちゃんと行った。布団を買おうと思った。布団はなかった。阿佐ヶ谷に帰ってきた。鈴古ちゃんの友達と偶然会った。その人が布団をくれた。引っ越してきたばっかり。家はそこ」

 と、本当にただ今日あったことを羅列していると、みんなが笑いながら、というか喜びながらそれを聴いてくれていて、それが嬉しかった。

「これから家具とか揃える。お金は全然ない。二十四歳です。元カノが死にました。結構しんどい。すぐ乱暴になるから嫌だ。鈴古ちゃんは優しい。代官山の蔦屋で会った。好きな食べ物はヨーグルトですね」

 日記じゃなくなってきた。でもみんなが真剣に聴いてくれてることだけは、全員の顔を見ていたからわかった。

「えー、なんだろうな。明日は電球を買いに行きます。白色蛍光灯が苦手です。最後に韻踏んでみようかな。えー、どうしよう。えー、死んだ彼女の名前は、えー、立東響子。もういないけど気持ち的には一生一緒。おわり」

 全員が、笑った。「ヤ~」とか言って、手をピストルの形みたいにして、振りかざしたり、手を叩いたり、盛り上がった。静かに、だけど強い盛り上がりだった。人生で初めて韻を踏んだ。
 流人くんはインタビューとかで、未だにこの時のことを、「伝助が、なんか、サイファーに入ってきて。急に。で、明らかに初めてなんすよ。超挙動不審で。で、なんか言えよって、漢さんの『紫煙』流れてて、ラップやらせたんすよ。で、人が初めて韻踏む瞬間見ちゃって。結構あれは、うん、泣いちゃったんすよね~」と言ってくれる。
 俺の左隣にいた集巡くんがすぐに、ビートに乗ったまま、「ありがとう。いきなりのバースキック。めっちゃ喰らった全員、本心飛ばすラップ。
伝助くんは苦手、白色蛍光灯。言葉操って掴むヒップホップの成功を」とか、即興でたくさん韻を踏んでいて、なんかよくわかんないけど楽しかった。小節は数えられないけど、明らかにいま俺だけ長いこと喋ってたな、というのはわかったから、もう一周してきたら、ちょっと短めにしよう。家の方を見たら、ベランダで鈴古さんが煙草を吸いながらこっちを見ていた。金色の髪が風に揺れていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?