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鉛筆を噛む癖、猫、モブ・ディープん家の麦茶

 新藤早代ちゃんが撮ってくれた俺の写真。

 自分があまりにも他人に対して興味や愛情がないこと。そしてそのことに嘘をつきたくないこと。もう本当に器用じゃないから、まず嘘をつかないことを全てのスタートラインにしなくちゃいけなくて、考える時に嘘みたいなものが混じっているとそれを取り除くことから始めなくちゃいけなくなるし、それでわけがわからなくなるし、それにとてつもなく苦しめられて今自分がそれに苦しめられていることにすら気付けなかった十九歳の俺は、相模大野に住んでいた。この写真は二十五歳の俺が相模大野にバッ・アゲインした写真で、写真に関する具体的な美醜の問題はよくわからないけども、さよぴぃの切り抜き方が凄まじいことはわかるし、そしてそこに凄まじさとかの表面的なこと、軽薄なこと?を考えている痕跡みたいなのが全くなくて、それが凄い。要は「凄いの撮るぞ〜〜〜」みたいな自意識というか、そういうものが無い気がした。ただただめちゃ真剣に純粋に撮る人だな、と、それは一緒に映画の現場に入っていた時から思っていたことだった。これは俺にとってとても難しいことで、つい自分本体のことを考えがちだから、嫌だなぁと思う。

 ダーツをやってみよう、となって、ダーツができる怪しげなバーに入った。ポテサラが「ぺっちゃんは大抵なんでもできるなあ」と言った。ぺっちゃんは本当に大抵のことがなんでもできるし、学生時代は勉強もスポーツもできて、センスもあってオシャレな男だ。俺は何もできない。ダーツをやっても麻雀をやってもゲームをやっても一番雑魚だし、自転車を漕いでも一人だけ遅すぎていつもみんなを待たせる羽目になる。ダーツ、麻雀、ゲーム、自転車。俺たちは今、大学生を取り戻そうとしている。抱え込む孤独の量やテイストが似ているから俺たちは一緒にいるのだろうか。多分本当にそうなんだろう。自分は人間的に劣っているという意識を拭い去るのはとても難しいし、そのことばかりに囚われて変な自信のつけ方を覚えたくもない。もう結構そうなりつつあるけど、時間があるとどうしてもこうやってウィークポイントのことばかりを考える。それもきっと良くないんでしょうねえ。二十六歳になりました。先月。二十六歳か。まあ、まあまあ。

 書いた小説は新人賞に見事に落ちて一次審査すら通らない始末でした。残念。ムカついたのでコピーして色んな人に配りました。格闘ゲームのオンライン対戦でいつまでも同じランク帯から抜け出せずにいるんですけど、あれこれもしかして生活でも同じこと起きてない? というか、格闘ゲームは負けても楽しいからこれが永遠に続いたとしても全然いいんですけど、何かを書いてそれが誰にも読んでもらえない観てもらえないっていう状況がずっと続くのはめっちゃ嫌だな、と思って、まあ、そういうことを思って、っていうただそれだけです。透明性を維持することに絶大な信頼を寄せているので、生きる過程をここに書いて、感情をオープンにすることも大切にしているんですけど、なかなか全てを言うことはできないものですね。

 トゥルー・ディテクティブっていうドラマがおもしろいです。フライング・ロータスばかり聴いています。テジュ・コール『オープン・シティ』、坂口恭平さんの『建設現場』、柴崎さんの『その街の今は』『わたしがいなかった街で』、ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』、シモーヌ・ヴェイユ『工場日記』、などを読みながら過ごしていました。

 僕が脚本を担当した映画『アボカドの固さ』が、ぴあフィルムフェスティバルに入選していて、京橋で上映されています。次は九月十三日金曜日の十六時からです。よかったら観にきてください。この現場で俺は大切な人たちにたくさん出会って、そしてきちんと大切にできているのか、自信があまり持てていない。

 台風が来ている。疲れやストレスが溜まると体のいたるところに湿疹が現れるんですが、これが二ヶ月ぐらい続いていて、つらい。ハライチのターンがずっとおもしろい。コントの脚本をみんなでああでもないこうでもない、と書いている。

 恋人と喧嘩して、明け方にずっと自転車を漕いだ。積極的に迷子になった。二時間ぐらい漕いで、家に戻ってきた。恋人はアイスクリームを食べていて、カーテンの隙間から入ってきた光の束を二人で両手で触った。


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