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THE 日記(1/27)

一月二十七日
 甲州街道を一台のバスが走っていた。そしてこのバスは連日一万人近くの新規感染者を叩き出していることへの反逆をガソリンとしていた。給油口に「とくとくとく」という液体特有の音を立てながら無気力を注ぎ込むとマフラーから白煙をもくもく焚き上げてあなたの街へと向かいます。なので当然車内には酒の匂いが漂い、マスクなんぞは誰も着用せず、というかその存在すら知らず、皆が一同にディープキスを繰り返していた。長くて大きいこの馬鹿な車が暗闇と橙色の明かりを交互に浴びると、酩酊から疲弊へと変わった実感に対応できないほとんどの者が眠りに落ちる。つまりそれは二〇二二年の一月二十七日だった。
 この車内で唯一明晰な彼は、今イヤーフォンでMac Millerの『Good News』を聴きながら、幡ヶ谷や笹塚の夜の景色を眺めている。良い気分だ。彼はその心地を記すためにiPhoneのメモ帳を開く。そこには小説の断片が幾つか並んでいた。暗闇に開かれた液晶画面の光は白く彼の顔を照らし、それが希望のメタファーだったらどんなにいいだろうかと願う。『味方の証明』と題されたそのイメージの断片を彼は少し眺めたあと、新しいページに文字を打ち始めた。
 一昨日、彼は西邑に会った。西邑は神戸に引っ越す。メシを食う予定だったけど、あまり腹が減ってないと言うので、とりあえず高円寺北口の喫煙所でタバコを吸って、ベンチに座り話した。そこにあったのは別ればかりだった。彼は思わず「二十代が終わるんやな」と言った。深まっていく断絶がコロナによってなのか年齢によってなのかが判別がつかない。そしてそのことが俺たち世代に何か重大な影響を与えるんじゃないか、と、日記を書いている今思っている。
 ファーストパーソン・シューティングゲームと小説の読み書きを繰り返す日々、一人でのサヴァイヴにフォーカスを絞りすぎた結果がこの高円寺北口だった。俺たちはどうやって生きていたのか。
 ぺっちゃんも合流して、彼らは三人で七つ森に行く。ブルーベリーのラッシーみたいなやつを飲みながら愉快に話した。そうなるとやはり夜中まで麻雀をやり、小雨の降るなか彼は西邑と二人でタクシーに乗った。宇多田ヒカルが爆音で流れている珍しいタクシーだった。永遠の別れではないけど、こっから更にまたなかなか会えなくなるだろうことを考えて、何か言っておくべきことはあるかな、と彼は頭を捻る。しかし宇多田ヒカルが爆音で邪魔してくるし、運転手さんも話したい様子で、普段だったらその当たりの柔らかさはとてもありがたいが今日に限っては勘弁してほしい。西邑とのラスト数分なんだ。「雨降ってますネ〜!!!!!」と絶叫する坊主頭の運転手さんを「そすね」ぐらいで流して、彼は西邑と話をする。そしてそれは本当に大事な話になった。大阪から東京に出てきてこれだけたくさんの友達や知り合いを作ったのは本当に凄いことだ、俺には絶対できない、誇るべきだよ、と伝えた。西邑は「でも結局あんま繋がらんかったな、とも思う。制作やる方が結局近道ちゃうかな」というようなことを言った。その言葉は彼をとても勇気づけた。
「あの歩道橋の下で降ります」
 そう、彼は「彼」なんかじゃなく俺だった。これを書いている俺だ。いつどんな時だって感覚を他人に明け渡すな。家に入ると、久しく味わっていなかった気持ちが訪れた。台所の白色蛍光灯を点けるとそこに雨の音がぽつぽつと重なる。俺は換気扇を回す。この俺が回す。決定的な換気扇を回す。セブンスターの煙は何の遠慮もなく空気の流れを無視して部屋中に漂い、窓を曇らせ、それは結露と見分けがつかない。
 味方の証明、味方の証明、味方の証明。と念じる。自分で思いついたこの言葉が本当によく引っ張ってくれている。
 とうに一日の境目がわからなくなっていた。日記を書けなくなりつつあった。
 それから数日が経つ間に俺はまた特に何もせず、東京では新規感染者が二万人を超えて、休日が来れば変わらずApexと小説を繰り返し、薬局で買ってきた蒸気でホッとアイマスクを着用して眠りに就く。渋谷行きのバスの中でダニー・ハサウェイのライブを聴く。夜の環七を歩きながら兄と電話する。一時間近くヒップホップの話をしながら、その間ずっと歩いていた。
 中学生の時にソフトテニス部でずっと三番手を争っていたトラウマがまとわりつく。団体戦は三ペア出れる。その三番目を三年間ずっと争っていた。しんどかった。Apexでずっとプラチナにいることがそれを強烈に思い出させる。キャラピックの画面でシアが「ゲームに本気になれない人に、勝つ資格はありません」と言う度に俺は深く頷く。何やってもプラチナ止まりの人生を変えたかった。ダイヤまであと150RPというところからずるずると、ゆっくり、時間をかけて、900RP溶かした頃(弱すぎだろ)、外は朝焼けで青く輝き、これが挫折か、と思った。心が明確に諦めた。自分のことをなかなか諦めない奴だと思っていたので驚きもあった。
 スプリット終盤によって増えてきた人の多さ=思考の変数の幅が広がること、に対応できない。それはなんか、作品を作って世に発表する事と似ているのかもしれない。合わせようとするのは無理だ。久しぶりに、いや、というか人生で初めて明確に諦めたのでなかなかショックだった。結局ソフトテニスも三番目の座を譲りたくないから辛かった。諦めていたら楽だったのに。
 それで彼は本当にプレステ4を斧とかで真っ二つにしようか小一時間迷った。しかし手元に斧はなく、斧の次にスカッとする破壊は「かかと落とし」かな、と思った。でもそんなのは理屈が先に来ている時点でもうダメだ。今からやるかかと落としは脳みそが弾けるかかと落としじゃなくて打算的で義務的な何の生産性もないかかと落としだ。だから彼は新宿に行くことにした。
 夜のブックファーストで本を三冊買い、そのうちの一冊、レベッカ・ソルニット『私のいない部屋』を大切に読み続けている。ゲームにマジになれない奴はなんにもマジになれねえよ。「ゲーム」ってテレビゲームだけじゃないよ。なんでも。だって小説書くのだって音楽作るのだって皿洗うのだって通帳記帳すんのだってメシ作るのだってカーテン買い替えるのだって恋人の腹を撫でるのだってゲームだし。
 ラジオにメール送ってた時はプレデターだったかもな、と夕方の世田谷代田で思う。好きが高じて誰にも負けたくないっていう思いになった時のあの感覚を久しぶりに味わえて結構嬉しかった。
 彼は新宿からまた丸ノ内線に乗り、自宅に帰り、丸椅子に座って部屋の全体を眺める。一年間ゲーミングモニターの画面ばかりを凝視していたから、壁紙が煙のせいで黄色くなっていることすら知らなかった。何発撃ってきただろうか。アサルトライフルの弾を。ショットガンの弾を。殺してきた人数は七千人ぐらいだ。一年かけて画面越しに七千人から希望を奪い、奪われ、その果てに何があると言うの? ラジオにメールを送るのを辞めた時も同じことを思った。
 一体何になった?
 でも何にでもなったよ。未だに「バナナムーン聴いてました」と言われる。まるで演者みたいに。ただのファンなのに。必死だっただけだ。今はわからなくても、何かを犠牲にしてまで夢中に取り組んだ経験が多分いつか俺を助けるよね? 苦しくなったら過去を参照しろ。でもそれに縛られるな。

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