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昨日の四暗刻、スペインのカレーライス、SAMURAIやったねえ
大嫌いな人たち、今何をしているんだろう、と思って調べたら、やっぱりまだ大嫌いだった。大嫌いなことが書いてあった。怒りは丸い輪郭で身の丈のようなものが6.5フィートあり、主に背後から俺の全体を覆うようにしてやってくる。怒りは生活を侵食するから難しい。悲しみや苦しみなんかよりも能動的なパワーだからそればかりになる。
書いて書いて、結局は書かれなかったことが重要になる。無音を聴かせるために歪んだギタアが鳴り響く。言葉は鋭利な彫刻刀であること、そんなことはもう何度も言われてきたことだろうけど、こたつに入って雑煮を食いながら観るハーフパイプのように、雪のザラザラ、ゴーグルのしめつけ、高くジャンプした時の景色などは、こたつに入ってちゃあわからない。新潮の新人賞に応募する小説を書いている。書いて書いて、ここに書いていないことを言おうとしている。いや言おうとはしてない。どんどん勝手にそうなっていく。それは凄いことだと思う。みんなに読んでもらいたいなあ。
Lucy Dacusという女がいた。『Night Shift』という曲の歌い出しは“The first time I tasted somebody else’s spit, I had a coughing fit”(はじめて他人の唾を味わった時、わたしは咳き込んだ)。なんて美しい歌い出しでしょうか。終盤に轟音がどぅんわ〜〜〜と鳴るところでも平常心のルーシー。俺はこういう二項対立をルームシェアさせたものに大変弱く、激しさは静かに、苦しさは楽しく、黒は白で、スイミーを瞳にするそのやり方が。それをこのライヴにも感じる。スイカに塩、酢豚にパイナップルは大嫌いだけど。
古本屋に行った。柴崎さんの『パノララ』、津村さんの『エヴリシング・フロウズ』、ロベルト・ボラーニョ『通話』、の三冊を買った。お会計の時に店員さんが「あ、向井秀徳さん」と言った。いや山口慎太朗ですけど、と思ったのも束の間、俺のリックサック(「リュックサック」のことは「リックサック」と言うことにしています)に付いていたTHIS IS MUKAI SHUTOKUの缶バッジのことだった。
「あ、そうなんですよ、大好きで」
「おめでとうございます。凄い騒ぎでしたね」
「あ、そうですね、嬉しいです」
「みんなまさか復活するなんてって言ってましたね」
「そうですね〜、驚きました」
「二千円です」
「あ、はい」
「ブックカバーつけますか」
「あ、はいお願いします」
沈黙。
「よく聴かれるんですか?」←俺のターン
「なんか私軽音サークルだったんですけど、周りがみんな大好きで、ZAZENとごっちゃになってるんですけど」
「あー、へー」
「本能寺で待ってる!」
「あ、それはZAZENですね」
「あ、これZAZENか」
沈黙。
「音楽やられてるんですか?」
「あ、いや、昔やってました」
「当てていいですか?」
「え?」
「ベース」
「あ、えー、ギターです」
「あ〜」
「ベースもやってましたけど」
「ベースもやるタイプのギターって感じだ〜」
「あはは」
「あはははは」
というような会話をして新宿に戻ってきた。なぜかこの会話に無茶苦茶緊張していて、今思うと、「ベース」「正解です!」でいいじゃん。馬鹿かよ。ブックカバーを折る所作が美しかった。らんぶるで『通話』の最初の一編を読んだ。とても良かった。
明日からストリートファイターⅤがゲーセンで稼働する。楽しみでもあり、もう少しウルⅣと過ごしたかった気持ちもある。最後に1プレイ、と思ったら、もう既にゲームセンターの筐体は「調整中」という貼り紙と共に、顔を黒くしてすやすやと眠りに就いていた。
多和田葉子さんの『穴あきエフの初恋祭り』をジャケ買いして、読み終わって、この胸いっぱいになる感じは凄いというか、人生で初めてカルダモンやクローブを舐めた時と同じ衝撃というか、食べたことない味だけどなんかすっごい美味しいんだけどなにこれ、というやつ。伏線だとかミスリードだとかが構成的な部分、縦の力だとしたら、横の力が異常なストーリーたちだった。線の力を鍛えることはできても、点の力を育むのはなかなか難しい。毎日『誰かの日記』という、架空の人間の日記を書いて有料配信していますが、ここにはまず、「人間のことを考える」という何かを書くにあたって当然の作業があり、そしてそこにどういう話の流れが産まれるかということを考えるわけですが、「日記」という制約の強弱を操作する作業もあって、とにかくこれらのミックスダウンが難しく、筋トレをしている気持ちになる。筋トレなので、最終的にムキムキになります。試しながら書くというか、成功も失敗も関係ないというか、まあ、頑張ってます。特徴の現れ方というのは主に、選択と比較であって、例えば友とスーパーマーケットに行き、桃を選ぶ友と、林檎を選ぶうぬ、となった時に、一人称が「うぬ」の危険性はまあいいとして、桃と林檎の違いがうぬとぬしゃの違いだね、という、そういうことの堆積で人間の地層ができあがる。二人称が「ぬしゃ」の危険性はまあいいとして、しかもそこには理由があって、林檎は皮ごと食べられるけど、桃は皮ごと食べられない。など。うぬはこの時ぬしゃと雨降りの高円寺を傘も差さずに歩きながら、白色蛍光灯が猛烈に光る駅のホームを遠くに見ながら、銭湯の煙突に向かって歩きながら、林檎を食べたいと思ったかもしれない。そういうバックグラウンドを想像するところまでが大切なのだ、と俺は好きな人に注意されて、そうか、そうだね、と言った。もしかしたら、ぬしゃも桃を食べ始めるかもしれない。皮なんて関係ないやつかもしれない。なぜ?なんで?どうして?俺は永遠に自分に問い続けて疲れて眠る。眠りは浅くて二時間ごとに目は覚める。全部の境界線は曖昧になって、昔読んだ小説を自分の体験として、記憶のクローゼットに無印良品で買った衣紋掛けで吊るしていたりする。
ナンバーガールが復活したことについて考えた。山手線の中で先頭車両の先頭部分に立っていたら、今乗っているのは小田急線のような気がしてきた。大学に通っていたあの青と銀の鉄塊で、「やがて思う果て跳ね返る水が」と。
足立くんに「昔のブログみたいに、ズバッと言って欲しいす!」と、THE後輩みたいなことを言われて自分の昔のブログを読み返したら、概ね今と変わらない気色の悪さだったけど、何より孤絶の具合が凄まじく、全然こんなのはもう書きたくないぞ、と思った。いつもこの日記はテキトーで、なんとなく気分でパチパチと進めている。特に見せ場のない生活を繰り返し、ワードファイルやスティッキーズばかりに激情を詰め込み、ビルとビルの隙間から差し込む夕日、風呂上がりに飲むネクター、直接的な愛情の現し方、木造家屋の錆びた手すり、ぺっちゃんの金色のヒゲ、ファイヤーキングのカップから垂れるコーヒーの一滴、野良猫の刺し傷、風呂に残った長い髪の塊、自生のカーネーション、などその他諸々に美しさを感じて、働いて寝て起きている。全然関係ないんですけど、3/16(土)の18:30ぐらいから、ポテトサラダ、ぺっちゃん、落合くん、足立くん、俺、でストファイやりながら喋る配信みたいなやつをやろうとしていて、ラジオという感じでもないんですが、本当に男五人がゲームやりながら喋るやつをやろうとしていて、無言の時間もめっちゃ多いと思うんですけど、なんか暇すぎて蕁麻疹出てる人いたら聴いてください。
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