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十一時十七分

たばこを吸わなくなって八ヶ月ぐらいが経った。右の顎関節が異常に痛くて、調べると、心因性かもしれないと思った。たばこを吸わなくなってから脳みそがずっとエンジンかかりっぱなしというか、疲れているな、という感じがあって、それが自分の書く文章に現れるのはとても気持ち悪かった。イマジズムは自信の表れだと思った。伝わる気がしないから言葉で埋め尽くして、豊かな細部を自ら削り取ってしまう。ぽん、と洗練された一語で、本来の一語以上のことを配置する。ということを考えないといけない。ストファイをやっている時は頭が真っ白になって気持ち良いけど、それはいつでもどこでもできるものではないから、そうなると、やっぱりたばこか〜と思って、設楽さんが吸っている金色のマールボロを吸った。八ヶ月ぶりに吸うたばこはめちゃめちゃ美味しくて、なんだこれ、うますぎだろ、なん、いや、え、いや、こんなのは駄目だ!とやっぱり思って、結局たばこは諦めた。
好きな店に行って『失われた時を求めて』を読んだ。メモ帳が置いてあって、そこには今まで来たお客さんたちの色々な言葉が書いてあった。どれもが長い文章で、仕事がきつすぎてやめたけど働いてもない自分がおいしいごはんを食べることに罪悪感を感じる、であるとか、結婚しているけどヘルスで働いてる、であるとか、友人の誕生会に行くけど産まれてきてくれてありがとうと思えていない、であるとか。なんだこのメモ帳は、と思って夢中になって読んだ。どこにでもあるのに誰しもがそのことに気付けないということをまた想った。
家に帰って、恋人と『パターソン』を観ようとしていた。最近バンドのMVの脚本を書いて、今は撮影直前で、監督から電話がかかってきてロケハン行こうよ、と言われて、恋人と一緒に車に乗ってロケハンに行った。駐車場のあるコンビニを探して、見つけた。そこで俺は金色のマールボロを買って吸ったのだった。ロケハンはすぐ終わって、なんだかとても良い時間だったな〜と思って家に帰ってきたら眠くなって、風呂にも入らず電気を消して恋人と一緒に眠った。起きたら朝の七時だった。恋人を起こさないように注意しながら俺はパソコンで誰かの日記を書いて、送って、コンビニまで歩いて、納豆と味噌汁を買って家に帰って、食った。珈琲を淹れて飲んだ。晴れている。ブラインドを通って縞模様になった陽の光を背に『10:04』を読んで、おもしろいなぁ、と思って、『哀愁の町に霧が降るのだ』の下巻を取って、寝室に移動した。眠っている恋人をオートボーイで撮って、隣に入った。羽毛布団の中は暖かくて「うわあったけ〜」と小さい声で言った俺は『哀愁の町に霧が降るのだ』を読んで、第17章の沢野さんが書いた日記を読んで少し泣いた。今は十一時十七分、まだ眠っている彼女の高い体温を背に、お風呂に入ろうかなと思っている。

お皿を洗いながら、嫌いなお笑いについて考えていた。やっぱり視点の位置の問題だった。「いじる」ということ。得てしてそれを発端にいじめが始まる、ということは、それは原子力発電所と同じで、「事故は起きません」「放射能は漏れません」と言っても、その可能性を所持した物が在るということが問題なのであって、「いじめにはなりません」と言ったところで、その可能性をむんむんに孕んどるそれが在ることが俺はとてつもなく嫌だった。二元論すぎて「そういうことじゃないんじゃない」とも言われそうだけど、わかりやすく言うと、善意も悪意と同じぐらい先鋭的で良いんじゃないか、と思っていて、悪意をむきだしにすることによって優位性が自動的に産まれるそれと同じように善意をむきだしにした時も堂々としていなければというか、例えば茶色い紙袋の中にグレープフルーツを入れた婦人が坂道でそれを一個落とし、ころころと転がり、坂道の下にいた大学生が走ってそれを拾って渡す。そうして、拾ってもらった婦人が「走り方変っすね(笑)」と言ったとして、拾った大学生も婦人に対して「なんだこいつは」と思っていいというか、書いててこれはやっぱり危険思想なのかな〜とも思ってきたけど、要は「おもしろい」に自動的にくっついてくる上から目線をうまく取り扱えてないやつが無茶苦茶嫌いで、ていうかそもそもおもしろくないし、その裏の匂いが漂ってくるだけでまず「おもしろい」が成立しないということに気付けていない。観ていて不快になる番組とかがとても増えた。それは何よりみんなが疲れていることを表している気がしていて、疲れている時こそ真の治癒を目指したい俺からすると、あまりにも手前にあるそのシンプルな構造たちはもはや悪だと思う。バカリズムさんの『女子と女子』というコントは、俗に言う「インスタ映え」とか「意識高い系」とか「女子力」とかをいじっているコントに見えるけど、最後にあの演技のまま犬もやって、店員さんもやる。そのスライドが、ただの上から目線じゃないことの何よりの証拠になっていて、もし俺がインスタ映えとか意識の高さを気にするOLだったとしても、あのコントを観て体の底から不快になることはないんじゃないのかなぁ、と思う。おもしろいから。中学高校の時、校長先生がこけたり、体育教師が噛んだり、そういうので笑うやつらが嫌いだったことをよく思い出す。おもしろいってそういうことじゃないんじゃない。俺はおもしろい人間だ!どうだ!ということを言いたいのではなくて、単純に人を馬鹿にするのはやめようねの話だ。俺の身の回りのおもしろい人達はみんなお笑いをワインレッドとか山吹色とかの暖色として捉えていて、嫌いなお笑いは全部ネイビーブルーとかの寒色だ。俺たちのは切れたら勢い良く吹く生きた血潮で、君たちのは陽の光を浴びられない内出血、鬱血だよ。

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