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レイドバックビートに輝き 3

 格好を付けて、直線的な投げやりの心を振りかざしたあの代官山蔦屋の夜、一緒に公園まで歩いてくれた金髪の鈴古さんは、俺なんかよりもあらゆる苦しみを、知りたくもなかったのに知り、そして享受し、黙って立っていた。風が吹いていた。

 ゲームをやっている鈴古さんに「電球買ってくる」と言うと、「私も行こうかな」と立ち上がったので、玄関に座ってツイッターを見ていた。するとものの二分ぐらいで「はいはい」と言いながらエアフォースワンを履きに隣に来て、「え、はやっ」と驚いてしまった。響子ちゃんと比べて、だった。阿佐ヶ谷の駅まで商店街を歩きながら、どうしてもっと優しくしなかったんだろう、なんでもっと楽しくできなかったんだろう、と、響子ちゃんとの暮らしを思い出す。家を出るのにとても時間のかかる人だった。だから俺はいつもベッドの上でツイッターを見たり、「まだ~?」と急かしたり、それでお互い仄かに不機嫌になって、どうしてもっと笑うことができなかったのか。歯磨きしてる響子ちゃんを持ち上げたり、ピアスをつけてる響子ちゃんに「いいねいいね~」と声をかけたり、なんで、できなかったんだろう。息が浅くなってきて、脂汗が滲み出した俺は、商店街の脇道に入って室外機の横の地べたに座った。鈴古さんは何も言わずに俺の前に立って、iPhoneをいじっている。何も考えないのは難しい。呼吸がどんどん苦しくなる。体育座りをして、両膝に頭を乗せ、さっき曲がってきた商店街の方を見た。大きな犬を二匹散歩させている主婦、台車を押す配送業者のお兄ちゃん、学校帰りの高校生六人組。
 鈴古さんが「ポカリ買ってこうか?」と言った。「うん」と答えると、鈴古さんはめんどくさそうによろよろ歩きながら商店街に戻っていった。

 鈴古さんはとにかく頑張っていた。偉いと思う。尊いと思う。笑っていい。もしまだ今、鈴古さんが何か具体的な出来事や曖昧な過去に苦しめられているなら、「大丈夫だよ」とただそれだけを断言する人がそばにいることを、もう誰もいないこの六畳一間で祈ったりもする。

 鈴古さんはスタバのバイトとテレビゲームを繰り返していた。うちに来る時も、プレステ3とコントローラーを持ってきて、カチャカチャと固い音を立てながらずっと操作する。ヘッドホンを着けているから、話しかけても返事はない。インスタントのコーヒーを作ってあげると、「ありがとう」と言ってよく飲んでいた。日が暮れるこの部屋で、何も言わずにずっとテレビゲームをやる鈴古さんを台所から見つめて、それ、そんだけやって、そんなにたくさん練習して、もし負けたらどうするんだろう、と何回も思った。

 鈴古さんが買ってきてくれたポカリを飲んで立ち上がると、視界が銀色に弾けて瞬いた。目を閉じて、また開くと、それは治まって、「ごめん」と言う。鈴古さんは興味なさげに「うん、オッケー」と平坦に言い放って、二人で阿佐ヶ谷の駅に向かってまた歩き出した。
 新宿のビックロでオーム電機の百ワットクリア電球を買った。百四十円だった。並んだたくさんの電球の前に屈んで、どれにするか迷っていたら、鈴古さんは腕を組んで天井を見上げていた。
「どうした?」
「いや、ダクトが綺麗だなと思って」
 顔を上げて見てみると、確かに銀色の、何の継ぎ目もないアルミパイプが天井を這って複雑に絡まり合い、綺麗な光沢を放っていた。

 夜が始まる新宿通りの、紀伊國屋書店の前に差し掛かった時、「あれ本屋だよね?」と鈴古さんに確認をすると、「そうだよ」と応えてくれた。
 森見登美彦さんの『熱帯』はもう読み終わっていて、本を読むおもしろさに初めて気付いた俺は、次の小説を買うために鈴古さんと信号を渡ってあのエスカレーターに乗る。
 紀伊國屋を出るとすっかり辺りは暗くなっていて、鈴古さんが「ゲームセンターに寄りたい」と言った。まだゲームやるのか、凄い。と思いながらついて行くと、そこは地下で、たばこの煙が充満する酸素の薄い息苦しい空間だった。おっさん達は大音量の機械音のなか佇んで、鈴古さんの周りには人だかりができていた。それを俺は遠くから、セブンティーンアイスを食べながら見ていた。一時間ぐらいが経って、俺はここから出て行くことにした。イラついた手つきで人だかりを掻き分けて、必死にキャラクターを操作する鈴古さんの右肩をグンと強く握り、「喫茶店いる」と叫んだ。鈴古さんは画面から目を離さずに、真剣な顔のまま「わかった」と言い、俺はおっさん達から睨まれる。明確な敵意を持ったまなざしに向かって「おいどけ殺すぞ」と言って、タイムスに入った。混んでいる店内ではたくさんの若者が各々の事情を吐露しまくり、それは大きな雑音の一塊となって、心地良いノイズになった。コーヒーを頼んで、紀伊國屋の紺色の袋を開ける。恩田陸さんの『錆びた太陽』を両手で持ち、太ももの上でその文庫本の表紙を眺める。わくわくするな~と思っていた。
 どれぐらいの時間が経ったんだろう。ぐんぐん引き込まれて読み進めるうちに、ふと我に返った時にはもう店の中は閑散としていて、慌ててiPhoneのロックボタンを押した。二十二時三十七分。鈴古さんから着信が三件来ていた。
 東南口の喫煙所の前にいた鈴古さんと合流して、中央線に乗り、阿佐ヶ谷に帰ってきた。電車の中で、「あんな長時間ゲームするんだったら先になんか言っといてよ」と伝えると、「わかった次からそうする」と、静かに冷たく鈴古さんは応えた。
 電球を交換するためには何かに乗る必要があった。まだこの家には布団と、鈴古さんのゲーム一式しかない。だから肩車をした。あまりにも高くなりすぎた鈴古さんは上半身を右に大きく曲げて調節し、電球を交換する。口金が回る音を聴きながら、「あと何があったらいいんだろう」と尋ねた。
「伝助くんが必要に感じたものだけ買えばいい」
「コップかな」
「今日買えば良かったじゃん」
「本当だよね」

 鈴古さんはそれから五年後にスポンサーがついて、プロゲーマーになった。

 鈴古さんを肩車から下ろして、スイッチをもう一度押す。部屋がオレンジ色の光に包まれた。やっぱりこっちのが良いね、と二人で見つめ合った。
 布団で眠る鈴古さんの横で、窓から入ってくる公園の灯りを頼りに、『錆びた太陽』の続きを読んでいた。何かと何かがぶつかる硬質な音が聴こえてきて、思わず立ち上がる。ベランダに出て見下ろすと、ピンク色の髪をした双子の女性がスケートボードを滑っていた。片方はキャップを後ろ向きに被り、板の上で高く跳ね上がる。ハイソックスを履いたもう片方はそれをiPhoneで撮影している。義務的な作業のように、淡々とそれを繰り返している彼女たちの影は長く伸びて、それをずっと見ていた。明日はコップを買いに行こうと思った。

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