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レイドバックビートに輝き 1

 代官山の蔦屋書店は午前二時だ。中にあるスターバックスコーヒーで本を読んでいた。その本は森見登美彦さんという人間が書いた『熱帯』という名前の小説で、おもしろかった。三ヶ月ぶりに乗った電車は作り物みたいで、本当に動いてんのか確かめたくなった俺は車掌室に向かって歩いた。揺れていた。だから真っ直ぐ歩くのが難しい。座っている人の脚にぶつかったりしつつ、車掌室の透明な板を握りこぶしで何回もぶん殴りながら、「おーい、おーい」と言った。優しく話しかけているつもりだったのにそれは暴力に見えたらしくて、代官山の駅員室でこっぴどく怒られた俺は縮こまりながら「すいません、すいません、本当に動いてるのか確かめたかったんです」と、言わない方がいいことをまた言ってどうにか釈放してもらった。それがついさっきだ。本なんか読んだことがない。それなのに俺は初めて降りた代官山という場所をふらふら歩いて、そのたくさんの電球色で輝く施設に意味もなく入っていた。本がたくさんあった。蔦屋書店なんだから当たり前だ。新刊のコーナーに平積みされていたその森見さんの本を取って、お金を払わずにスターバックスコーヒーの席に勝手に座って読んでいた。店員さんは四人いて、四人とも若い女性だった。そのうちの一人、金髪ロングヘアーの女子大生が、「まもなく閉店の時間になりまーす」と言いながら店内を歩いて、それでぽつぽつと、好きな服を着た男女たちが帰り支度を始めて、音もなく順番に家に帰る。雑魚のポップスが小さい音量で流れている中、俺一人になった。四人の店員は掃除をしたり、レジのお金を数えたり、閉店に向かって一直線に走っている。金髪の彼女が近付いてきて、「すいませーん、もう閉めちゃいますねー」と言った。俺は「はい」と、また本を読み始めた。おもしろい。この本はおもしろい。本、読めるんだ、俺。感動していた。そして少し、というかかなり、救われる気持ちだった。この文字群を眺めている間だけ、なんか、響子ちゃんが血まみれで倒れていたあの景色を忘れられる気がする。電気が点いてない真っ暗な冷蔵庫の前、車海老みたいに湾曲して倒れる響子ちゃんの上を、窓の外を走る防犯パトロールカーの青色灯が、ぐるん、ぐるん、と通過していたあの写真にこれから先もずっと苦しめられるのに。
「すいません、すいません」
「はい」
「あのー、閉店です」
「はい」
「えー、はい、『はい』じゃなくて、閉めますね」
「はい」
 金髪の彼女は三秒ぐらい、真顔のまま黙ると、一瞬眉間にしわを寄せて、「動いてください」と言った。
 俺も考えて、そしてやっと、「嫌です」と言った。
「いや、閉めますよ」
「はい」
「帰ってください」
「嫌です」
 金髪の彼女は明確に舌打ちをして、小さい声で「なんなんだよ」と言い、「帰れよ、馬鹿かよこいつ」と文句を追加した。
「嫌です」
「嫌ですじゃねーんだよ、帰れよ」
「嫌です」
 すると彼女は苛立つ様子は全開のまま、ちょっと笑って、「なんでだよ」と言った。そこでちょっと笑う気持ちはわかる気がするし、そういう余裕と言うのか柔軟さと言うのか、懐の深さみたいなのを持っているのはきっと優しいしかっこいい。
「嫌です」
「もう〜、なんなんだよマジで」と、金髪女はカウンターに戻って行った。よかったよかった。本の続きが読める。すると店内の電気が、奥から順番に、こっちに向かって消えてきて、とうとうカウンター以外の電気は全部消えた。本が読めなくなった。店員さんも誰もいない。カウンターに行って、メニュー表の上に本を乗せて、続きを読んだ。どれぐらいの時間が経ったのか、夢中になって読んでいたから、気付いた時には横に、私服姿の金髪の彼女がいて、肩を結構な力でパンチされた。
「帰れよ、マジで」
「嫌です」
「なんなんだよ、そんな本読みたいんすか?」
「うん」
「本読めればここじゃなくてもいいの?」
「本当はここがいいんですけど」
「なんか読めそうな場所探してやるからとりあえず外出ろよクソ馬鹿が、なんなんだよマジでこいつ」
 彼女はジーパンの上にジージャンを着ていて無茶苦茶デニムだった。さっきまで付いていなかったヘアピンが前髪に留まっていた。仲良くなった今ならわかるけど、鈴古さんは優しい人だ。「クソ馬鹿」とか「こいつ」とか、攻撃的な言葉を言われたのはこの時が最初で最後だった。境界線に怯えがちな人だ。だから跨いでいいと許可が下りるとどこまでもそれを果たす。我慢をする。我慢しなくていいとわかったら無茶苦茶やる。
 ローソンに寄った。スーパードライの缶を買った鈴古さんは何も言わずに歩いていて、それについて行った。早く続きが読みたい。公園に着いた。鈴古さんがベンチに座ったので、隣に座って続きを読んだ。俺が本を読んでる間、鈴古さんはツイッターやインスタグラムを眺めたり、煙草を吸ったり、たまにビールを飲んだりして、「長い」と言った。紙の束から目を上げると、周りの空気は青みがかっていて、木が朝日を浴びて静かに揺れている。スズメの大群が飛んでいた。朝が来る。横を向くと、鈴古さんの眠そうな瞳に金色の髪が光を跳ね返しながら重なって煌めいた。
「四時半だよ、長いわ流石に」と言った。
「はい」
「ねむいわ流石に」
「はい」
「帰るから。うちでいい?」
「はい」
 と、鈴古さんの家に行くことになって、鈴古さんはあの時のことを「なんでこの人が本読んでる時は横にいないとって思ってたんだろう」と言った。
鈴古さんの家はやたら狭くて物ばっかりだった。シンクに飲みかけのペットボトルがしこたま溜まっていてくさかった。
 鈴古さんが俺の肋骨のあたりを軽く蹴って、起きた。夕方になっていた。鈴古さんは髪の毛が濡れているからお風呂に入ったんだと思う。ドライヤーが終わると鈴古さんはテレビの下にあるプレステ3を起動させて格闘ゲームを始めた。それを黙って見ていた。
 家を探さないといけない。一緒に暮らした人は立東響子ちゃんという名前で、三ヶ月前に死んで、それから俺は仕事に行けてない。何もできなくなって、ひたすらうろうろと近所を散歩している。漫画喫茶で寝たりしている。公園で眠ったりもしている。
 鈴古さんの家に住みついて二ヶ月が過ぎた頃、新しい部屋を見つけた俺は何も持たずに新居に入った。そして今、日が暮れるこの六畳一間に仰向けに寝て、真っ白な天井を幾何学模様の紺色の影が動くのを見ている。荷物は全部、響子ちゃんと暮らした部屋に置いてきた。響子ちゃんのお父さんとお姉ちゃんがきっと全部処分したと思う。だから何も持ってない。二十四歳になって、東京で、阿佐ヶ谷で、何も持たずに一人になった。立ち上がって、窓を開けた。目の前にある公園は広くて、地面が緑色のゴムみたいなやつだ。バスケのリングがある。だぼだぼの服を着た男が二人、スケボーに座ったままiPhoneを手に持って音楽を流している。何か喋っている。と思ったらそれはラップだった。何から買おうか。洗濯機か、冷蔵庫か、コップか、机か、何から買おう。

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