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私の教育ストーリー ~自分らしく生かせたい!~


ある春の日、時計の中にいる1時の1ちゃんは時計の外に出てみたいなぁと思いました。
「ずっと時計の中で働いていなければならないなんて、つまらないよ」
そこで1ちゃんは、こっそり時計を抜け出しましたー。


Moi!

今朝いよいよフィンランド留学に旅立ちました、magaranです!
エコノミークラスの席が満員だからという理由でビジネスクラスに通され、ゆったりすぎる席で優雅にブルーベリージュースを飲みながらこれを書いています。控えめに言って最高すぎる!! 


前回、幼い頃に感じた教育への違和感が今の私のテーマに繋がっているというお話をちらっとしました。今回は私がこれまで歩んできた人生ストーリーを語ろうと思います。ちょこっとばかり長いですが、最後までお付き合いいただけたら幸いです!


「どうして同じじゃなきゃいけないの?」
~制服から始まった教育への違和感~


時は遡って、小学校6年生の頃。
きっかけは、ほんとに些細なこと。
中学という新たな世界に入る手前で感じた、ちっぽけな違和感でした。


「どうしてみんなしておんなじ服着なきゃいけないの…?」

みんなで同じセイフクを着なければならないのってなぜなんだろう??


初めは小さな疑問に過ぎなかったけれど、その疑問は次第に大きな違和感に変わっていきました。


どうして人は「同じ」にならなければならないんだろう?そもそもギムキョウイクってなんでギムなん?ギムキョウイクがあることで、みんなだいたい「同じ」人生を歩むように仕組まれてるんじゃないか…?「同じ」ってなんか怖い。とてもとても怖い。私はこのまま、誰かと「同じ」ような存在になって行くのだろうか…?みんなが「同じ」世界って、なんてつまらないんだろう!


当時はそこまで言語化できていたわけじゃないけれど、同質化していくことへの得体の知れない怖さは、子どもながらになんとなく感じていました。


同質化、つまり人がそれぞれのユニーク性を失い、機械のように代替のきく存在になっていくことー。
当時の私は、それが怖くて悲しくて虚しくて仕方なかった。


教育って、大人が子どもをコントールしやすくするための都合の良い道具にすぎないんじゃないか?
子どもはこの世界に生まれた瞬間から、大人が用意したレールが敷かれた上を歩かなければならないのか?
教育はちゃんとした大人になるためって言うけど、周りの大人はみんな自分勝手で理不尽でつまらなそうだ。こんな大人になるためなのなら、私は教育受けたくない。自由な子どものままでいたい!


私が教育や大人という存在に対して強い反発心を持ったのには、ちゃんと理由がありました。
この記事の冒頭にあった、なにやらメルヘンチックな時計のお話。
これこそが、私が一人一人に焦点を当てにくく大人数を「同じ」ように管理してしまう"教育"というものに強烈な違和感を抱くことになった、最大の要因なのです。



冒頭のお話の続きを見てみましょう。
時計を飛び出した1ちゃんは、外で波乱万丈な冒険を繰り広げ、しかし最終的にはまた時計の中で働くことを選びます。


時計で働いている数字が、また時計の中で働くことを選ぶ。
端から見れば、1ちゃんは何も変わっていません。これまでも1時という時を知らせるために働き、これからもずっとそうであるからです。

しかし、1ちゃん本人から見たらどうでしょうか。
きっと、冒険をする前としたあとでは、1ちゃんの心の中は180度変わっているはずです。
時計の中で働き続けることに疑問を感じながら働くのと、色々外の世界を経験してから「やっぱり自分は時計の中で働くのが一番なんだ」と自分自身で納得して働くのでは全然違う。
これがもし「絶対時計の中で働くのがあなたにとって一番いいんだよ」と周りから言い聞かせられて1ちゃんが冒険に出なかったとしたら、1ちゃんはいつまでたっても本当の意味で納得感を得ないまま、時計の中で働いていたに違いありません。


1ちゃんのように、人はそれぞれその人なりの物語を持って生きています。
けれど悲しいかな、その物語は外からは見えにくいことが多い。
しかしその人がその人らしく人生を歩んでいくためには、その物語をちゃんと理解して、本人が自分自身の力でその物語の続きを描いていけるようにしていかなければならないのです。


一方で、大人数を一度に教えなければならない学校では、一人一人の持つ物語をちゃんと見つけてあげることが難しい。それよりも、子どもが知らないであろうことを一斉に教えこんだ方が、大きい視点で見ればより多くの子どもの可能性を伸ばすことにつながると考える人は多いと思います。


だけどやっぱり、小学生の頃の私は、どうしても軽視されがちな一人ひとりの物語を大切にしたかった。


というのも、何を隠そうこの1ちゃんの物語は私が小6のときに書いたお話であるからです。
私は物心ついたときから人やモノの持つ物語を見出すのが好きで、小学生の頃は身近にある色んなモノを主人公にしては物語を書いていました。
そんな私にとって、クラスにいる30人の子どもたちは「子どもたち」と一括りにされてしまうものではなく、一人一人の人間でした。
だからこそ、先生がその子のことを良く見ないで発する言葉には人一倍敏感だったと思います。
「この子は今頑張ってるのに、どうしてなにも見てない先生がそんなこと言えるの!?」
って、毎日そんなことばかり思いながら学校生活を送っていたわけです。我ながら生きにくい子どもだったなぁと思いますが(笑)


今なら、先生や親など教育をする側の想いも理解できます。教育の課題は決して一面的なものではないということも、だから一概に誰が悪いと言えるわけでもないことも。


けれど、


「学校現場ではなかなか焦点が当てづらい一人一人の子どもの物語をもっと大事にしたい。それによって、1人でも多くの子どもが自分らしくイキイキ生きていけるようにしたい。」


そんな私の想いは間違いなく小さい頃の経験から来ていて、現時点で私はこの想いを実現するために生きていたいと思うのです。


次回からは、そんな自分の想いに気づいた私が日本で色々見て経験してきた教育についてまとめていきたいと思います。
興味のある方もない方も、ぜひぜひ読んでいただけたら嬉しいです。
長い文章を最後までお読みいただきありがとうございました!😊


ではではnähdään!


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