何者でもない人生を望む
子どもの頃からずっと、何者にもなりたくない人生を送って来た。
根が怠け者なのだろう。
「普通の人生」を送るのが望みなのは、今も昔も変わっていない。
自分には何の特筆すべき才能もなく、何者にもなれないという合理的な考えの元、生きて来た気がする。
天才が努力をしてより一層の高みを目指す厳しい世界で、私は私の等身大のままでいいのだ、小さな世界を小さく生きるのが妙に気持ちが良いと思う人生観だ。
本を読み、心づくしのご飯を食べ、映画を観たり美術館に行き音楽を聴きにに出かけ、その帰りにちょっとした外食をしたり、バーに寄ったりする。
そんな静かな生活を送ることだけが望みだったったし、これからもそうだろう。
知り合いのバーテンダーに両極端な二人がいる。
一人は、バーを何店舗も経営することを望んだり、パリやマカオのホテルで自分のお酒の実力を教えに来て欲しいと請われていると言い張り、実際に行ってみたが、もちろん相手にされず直ぐに帰国した。
バーの経営で成り上がりたいのは分かるが、それは無理な話だ。
なぜ、パリのリッツの超一流の有名バーで、あの個人主義の極みでプライドの高いフランス人が、日本から来た恵比寿で小さなバーを経営しているだけのフランス語も英語も覚束ない男性に何を望むのかという疑問を持たなかったのが不思議である。
酒の味は良いのだけれど、当然のことながら、出す店はことごとく失敗続きである。
もう一人は、麻布の一角で手堅く商売をしている。
バーテンダー仲間からは同じバーテンダーとは言われたくはないというぐらいの人望の無さなのだが、とにかくその一店舗を我が城とし独特の世界観を持ち、シガーバーとして成功している。安い酒を高い酒の瓶に入れ替えているという噂もあり、作れるカクテルは一年中モヒートだけであるけれど、需要があり流行っている。
頑張っているのは前者のバーだけれど、勝っているのは後者のバーだ。
その差は、自分が何者になれるかどうかを見極められているかどうかである。
魯山人の随筆で、印象深いものがある。
資産家の経営者のお手伝いさんの料理がとても美味しいと評判になっていたので頂きに行ったら、所詮素人料理としてはそこそこ美味しいけれどその域を出ずそう美味いものではなかったと辛辣な文章であった。
要するに、自分の器を知れということである。
才能とは、そう簡単にあたえらるギフトではない。
私には、ギフトは与えられなかった。
幸いにも私に与えられたギフトを唯一上げるのなら、自分の器を、何者にもなれない自分というものを、人生の早くに知ることができたということだったとこの歳になって思う。
そして、何者でもない人生を、私は十分に満足して堪能している。