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アガサ・クリスティー『ホロー荘の殺人』他数作を読んで考えたこと ほんの少し金田一耕助を添えて

※毎度のことながらネタバレばかりですので未読の方はご注意ください。
今回ちらっとでも触れる作品
アガサ・クリスティー
『白昼の悪魔』『五匹の子豚』『ホロー荘の殺人』『満潮に乗って』
横溝正史
『犬神家の一族』『白と黒』『悪霊島』

 最近ずっとポアロを順番に読み続けています。今は『マギンティ夫人は死んだ』に手をつけ始めたところです。今回は最近まとめて読んだ名作について少しずつ触れたうえで、私にとって非常に印象的な登場人物が二人も出てきた『ホロー荘の殺人』をメインに書いていこうと思います。
 ではさっそく。『白昼の悪魔』。いやあ、旅先でポアロに遭遇するのは嫌ですね、江戸川コナン君にも遭遇したくはありませんが。さて、誰からもさげすまれる「悪女」は裏を返せば「哀れな娘」でもあるんですね。そして現代でもこういう女の子たち(きっと男の子も)たくさんいますよね。本人たちはキラキラしていて自覚はないのかもしれませんけれど。登場人物たちのセリフにつられてマーシャル夫人のことは私もよく思っていませんでした。良識に支配された思い込みって怖いなと反省しました。マーシャル氏は騎士道精神に満ち満ちた人物だったんですね。本来ならば福祉がするべき仕事な気もしますが、現代でも彼ら彼女らは福祉にはなかなかたどり着いてくれないだろうな、とか思ったり。そしてリンダが無事でよかった。思春期って色々思いつめた結果、自分でもわけわからないことやりがちですよね。彼女なんてかわいいもんです。ほんとに無事でよかった。マーシャル氏とロザモンドとのラストのやり取りはちょっと首をかしげましたが、彼女がやりたい仕事(ドレスメーカー)を奪われた『迫害された女』に「自分のせい」でなってしまうとマーシャル氏が自覚しているわけだし、ロザモンド自身もそれも悪くないと思っているのならそういう着地もありなんだなと納得しました。ついでに言うとガードナー夫妻めっちゃいいなと思いました。ホームコメディみたいな夫婦ですよね。
 続きまして『五匹の子豚』。これが『スリーピング・マーダー』(マープルものを読み終わりたくなくて本棚で寝かせているのです。)と同じいわゆる「回想の殺人」を扱ったものかとワクワク。キャロラインは自分で納得してあの運命に身をゆだねたんだからいいんだよ、やっと罪滅ぼしができたんだから。と自分に言い聞かせないと辛くて。安っぽいことを言うとすれ違いが生んだ悲劇ですよね。それにしても全編通じて含蓄のある表現が多く、これはちゃんと購入して何度も読み返したいなと思いました。それと『月と六ペンス』は過去に読んでよくわからなかった残念な記憶があるので再チャレンジしてみようかな……。
 『満潮に乗って』は横溝正史の香りがしましたね。霜月蒼『アガサ・クリスティー完全攻略』を先に読んでしまったのでそれに引っ張られているのかもしれませんけれど、一族のごたごたと遺産のごたごたに謎の人物が絡んで……って『犬神家の一族』じゃーんとは思いました。ちなみにポーター大佐との会談の場面では私ですら違和感がありましたよムッシュ・ポアロ。まあ感じたのは違和感だけで、読み落としかな?まいっか。で先に進んでしまったんですけどね……。ちなみに最終盤のローリィ氏の様子は横溝先生なら絶対に「デスペレート」って表現されるでしょうね。
 さて横溝作品つながりで先日読書中だった『白と黒』、ようやく読み終えました。最終盤、「そんな隠語知らん!」と口走ってしまいました。私は聞いたことありませんが死語なのでしょうか?知らないだけかな……。さて、ああなってしまった以上京美ちゃんの幸せを祈るのはなかなか難しいことになりましたが、彼女更生できるでしょうか。そして由起子ちゃんは無事助かったんですよね??大丈夫なんですね???『悪霊島』の真帆ちゃんもですが最終盤に安否が示されていない子どもがいると私、気になります。せめて未成年の安否は教えてください先生。これは野暮といわれるのかしら。それにしても激務ゆえとはいえ、とんでもないタイミングで居眠りした志村刑事は等々力警部から一喝どころか十喝くらいされていいと思いますよ。始末書もね!!既定の枚数より多めに書いてくださいね!!ちなみにこの場面、てっきり金田一先生もご一緒だと思ったんですが(多分ミス・マープルなら由起子ちゃんに説明したうえで一緒に刑事と張り込んでる)、もしかしてもう「メランコリー」に追い立てられてしまったのかな。おいたわしいことです。そして根津さんはとっても誠実な人だったんだなと。うまく言えませんが、彼は物凄く横溝正史作品らしい、忠誠を尽くすタイプの善人だなと思いました。(須藤夫妻のことを考えると手放しで善人とは言い難いですが他の表現が思いつきません。)しっかり罪を償ってから奥様と協力して親子三人で平和に暮らしてほしいものです。タンポポのママの正体は岡部泰蔵氏の友人の話が出た時点でうすうすわかってしまったのですが、とんでもない行動力の人があったもんですね!旦那さん大変でしたね、とだけにしておきます……。それにしても同性愛に対して横溝先生の記述が激しすぎる気がしますが当時の倫理観の限界なのでしょうね……。

 さて、『ホロー荘の殺人』です。非常に印象的に感じた二人というのはルーシー・アンカステル(アンカステル夫人)とガーダ・クリストウ(ガーダ)です。対極にいるような二人なんですけどね。何を隠そうわたくし、中学生の頃級友に「頭の回転は速いけれど、いつも壊れている」と指摘されたことがあるんです。こんなのアンカステル夫人じゃないですか。もちろん私はヤカンをかけっぱなしで布団に入るまでのことはしませんが、現在でも夫曰く「思考がホップステップジャンプしてる」とは言われるので大きく括れば私は夫人と同じタイプなんだと思います。きっと自覚なしに突飛なことをしているのでしょう……。彼女の言動を読みながら「私こんなに支離滅裂なの!?」と軽くショックを受けました。少し一般的な感性と外れたことを彼女がしているとき(例えば事件直後にみんなの昼食を心配するとか)も、同じ状況同じ立場だったら私はやりかねないです。だって生きていればおなかは空くでしょう?彼女が出てくるたんびにここまでは酷くないはずだと思いながら自分と照らし合わせてビクビクしていました。ただ、夫人は執事をはじめとした召使いたちに慕われていますし、優しいフォローをされています。私も学生時代から友人たちにたくさんフォローしてもらっていました。今後もそれを自覚して周囲の方々に感謝しつつ、しっかりしたいなと、もう完全に作品の本筋とは無関係ですが肝に銘じたところです。苦笑するしかありません。
 さて、ではガーダについてです。本文の言葉を使って具体的に説明するならば「実際にはわかっているのに、わからないふりをして代わりにやってもらう」というガーダのふるまいには私にも心当たりがありました。まあ、その、彼女のように「ちょくちょく、そのことを楽しんで」みたり、それによって「自分が不器用だということも忘れてしま」ったりはしませんけれど。例えばそれは「勤め先の飲み会での若手としてのふるまい」のような、私個人としてはものすんごく頑張ったらみんなに追いつけるかもしれないけれどそれをやると力尽きて他のもっと必要なこと(本来の職務)ができなくなりそうなことをするときにはそういう風にして得意な人に任せていました。なんとなく「したほうがいい行動」はわかるけれども上手にできないことに多少劣等感はありつつも、別にできなくてもいいし、と思えるもの……なんというか「餅は餅屋」というつもりなのですが。ガーダはこれを悪用しているように感じられました。悪いとは思っていなかったでしょうね。自分の心のための自衛の手段だったのかもしれません。ガーダのように何をするにも罵られたり邪険にされていれば、「優越感を得るための楽しみ」としてそういう風にふるまってしまうのも無理はないのでしょうけれど。ガーダのこうしたふるまい(考え方?)を読んで、「あー、わかりたくないけどわかる気がするなぁ」と思いながらも、まさかこれが本筋に大きく関与するとは思ってもいませんでした。ホルスターの件でヘンリエッタがガーダのうちに向かった時、え!?結局そっちだったの!!??とひっくり返りました。ガーダは「わからないふり」をして殺人の後始末という「難しい仕事」をしなくて済んだわけですね。(一応彼女なりの小細工は弄されていましたが。)こうなってくるともう彼女に同情はできません。卑怯で卑劣な殺人鬼です。殺すだけ殺して後処理は知らんぷりなんて。しかも「みんなが考えてるほど、わたし、のろまじゃないのよ」って、あんたの知らんところでヘンリエッタはめっちゃ大変だったんだよ!!!殺人の動機についてもですね、自分が何もできないものだから、夫を極端に理想化して、そこから外れちゃったからってあまりにも勝手が過ぎます。非常に衝動的で罪悪感のない犯人です。最後に薬で自決したのも生きていく術がもう彼女にはないことにようやく気付いたからなのでしょうし。愚かで無自覚に利己的な人物だったわけですね。ヘンリエッタの彫刻作品≪祈る人≫は本質をついていたのだと思います。やはり自尊心は自分由来のものでないといけませんね。素敵な理想の人物をパートナーに持っている私、とでもいうような自尊心は結局ゆがんでいるということなのでしょう。現代でもこういう≪祈る人≫はたくさんいそうですし……。時を超えて現代でも通じるこうした人間性を見抜き、ミステリに仕立てあげるアガサ・クリスティーの慧眼にただただ敬服です。
 ジョンは彼女のこういう側面に気づいてはいなかったのでしょう。独善的でしたし。いや、自分と患者のことで精一杯だったといったほうが正確でしょうか?それはそれとして気の毒なのはヘンリエッタです。愛する人の死を悼むことよりもその妻の殺人の後始末を頼まれてしまっては、やるしかありませんから。ポアロ曰く「患者の命にかかわる手術をしている医者が、一刻の猶予も許さない、鋭い声で『鉗子』と言うときのように生き生きとした意識のある声」だったジョンの最期の一言「ヘンリエッタ」ですが、このセリフも考えさせられます。読み終えてから、つまりヘンリエッタは「鉗子」だったわけか……とか、この一言だけで通じるくらい二人はわかりあっていたんだな……と思ったり。ラストで彼女がポアロとクラブトリーばあさんの言葉を受けて、ようやく不要な心配事(ジョンの望みでもある、ガーダの後始末)から解放されて自分自身の悲しみや嘆きを形にできるようになったとき、本当にほっとしました。優秀な自立した女性作家ってかっこいいなとつくづく思いました。そこにはアガサ・クリスティーその人も含まれるわけですが。

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