ゲロ・トレイン (エッセイ)

渋谷で知人と食事をした帰途のことである。
ぼくの自宅兼仕事場は吉祥寺の辺りにあり、渋谷からは京王井の頭線で帰るのだが、平日の午後七時という時間、電車は帰宅ラッシュを迎え、どの車両もとんでもない混み方をするものだ。
京王井の頭線渋谷駅のホームは二つあり、うち一方が急行列車のそれとなる。ぼくは発車時刻を待つ急行列車に乗り込むべくホームを歩き、何両編成かわからないが、なるべく空いている車両を選ぼうとしていた。
すると、他の車両に比べて明らかにスカスカな車両を発見、ぼくはこれ幸いとすかさず乗り込み、一息ついた。車内を見回すと、本当にスカスカなのだ。立っている乗客がちらほらといる程度で、座るための座席すら空いている。ラッキー、こういうこともあるものだなあ、などと思いつつ、ぼくはポケットから文庫本を取り出し、空いている席に腰を降ろしたのだが、次の瞬間、「おえああっ?」とかなんとかよくわからない声を出して尻を浮かせてしまった。なぜか座席がしっとりと濡れていたのである。
周囲に視線を巡らせると、ちらほらといる乗客が「あーあ、座っちゃったよ、あそこに。あーあ」とでもいいたげな目でぼくを見ていた。座席で誰か失禁でもしたのかどうか知らないが、とにかくぼくは尻を浮かせたまま歩行し、尻が濡れていないかどうかを触って確かめた。いやあ、困った。座席の水分をいくらか吸ってしまったらしく、こちらもしっとりと濡れていた。これではぼくが失禁したみたいではないか。
トホホ、なんて思いつつ、ぼくは所在なく立ち尽くしたのだが、そこでどうにも床がぬるぬると滑りやすくなっていることに気づいた。何か潤滑油のような物が塗り広げられているかのようだ。んん?しかも、車内に酸っぱい臭いが漂っているのは気のせいだろうか。くんくん、とぼくは車内の空気を嗅いだ。うん、やはり気のせいではない。酸っぱい臭いがする。
そして、先述の滑りやすいこの床は一体なぜだろうか。謎だ。謎すぎる。
そこで、ぼくはピンときた。
もしかして、床でこの潤滑油のような役目を果たしている謎の液体は、吐瀉物ではなかろうか、と。
よく目を凝らして床を見ると、塗り広げられているのは液体だけではない。ネギとか、細かく刻まれた麺とか、ようするにまあ、その、ゲロだったのである。
「おわああ!G・E・R・O!ゲロ!」
エンガチョ、という感じであった。汚い。再び車内に視線を巡らせると、やはり他の数少ない乗客が、「あーあ、踏んじゃったよ、あいつ。ゲロ踏んじゃってるよお・・・」
とでもいいたげな眼差しをぼくに向けている。
どうやら犯人は相当に酔っぱらっていたらしく、座席で尿失禁し、さらに床へ嘔吐したらしいのだ。
ぼくは慌てて車両からホームへと飛び降り、靴の裏に付着したゲロを除去するべく後ずさりしながら靴の裏をホームの床へとこすりつけた。
ズリ、ズリ、ズリ、ズリ、という音が虚しく鳴る。
そこへぼくの耳に飛び込んできたのは母親に連れられた子供の声であった。
「ママあ、なんであのおじさんムーンウォークしてるのお?」
ムーンウォークはしてないよ。
おしっこの沁み込んだ座席に座ってしまったかと思えばゲロを踏み、挙句の果てにはマイケル・ジャクソンの真似事をする変人扱いされてしまった。
もうなんだか、穴があったら入りたい気分である。
お願いだ。
頼むから電車の中で失禁とか嘔吐とかしないでくれい。

(了)


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