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蒋渭水の「臨床講義-台湾診断書」についての検討

Ⅰ、拙訳

台湾診断書
一、姓名 台湾島
一、性別 男
一、年齢 現住所に引越してから数え年現在27歳
一、本籍 中華民国福建省台湾島
一、現住所 大日本帝国台湾総督府
一、地位 東経120ー122、北緯22-25度
一、職業 世界平和を守る警備員
一、遺伝 黄帝、周公、孔子、孟子らの血筋を引く
一、体質 上記の学者の末裔であり、体は強く頭は賢い。
一、既往症 幼少時(鄭成功と暮らした時代)は身体頑強、頭脳明晰、意志堅固、人格高尚、動作機敏。但し清朝の政策中毒により衰弱、身体病弱、意志薄弱、人格低俗、節操低下の病歴有り。日本帝国に居住して以降対症療法も効かず回復の見込みは薄く二百年近くの慢性中毒を患う。治療困難。
一、症状 道徳荒廃、人情薄弱、物欲の虜、粗末な精神性、風俗の乱れ、衛生観念の欠如、新興宗教にはまりやすい、堕落怠惰、腐敗、卑屈、怠慢、品性が卑しい、智力不足、計画立案の困難、虚栄、恥知らず、四肢倦怠、だるさ、朝起きられない
一、主訴 頭痛、目眩、空腹
  寝たきりになっている、頭部が肥大、思考力の低下が見られる。常識に関しての試問でも回答は要領を得ず、知識不足が原因のようだ。この患者は愚かで低能児の可能性がある。頭の大きさに比して中身がからっぽであることが理由のようだ。哲学、数学、科学の話を耳にすると目眩と頭痛を訴える。胴体が細いのに比較して手と足はとても発達している。働き過ぎのためか。痩身が突然太って痩せたような腹部には、経産婦のような白線がある。第一次対戦の好景気で食べ過ぎ、腹を下したためか。

一、診断 世界文化未発達性低能児
一、原因 知識栄養不足症
一、経過 慢性化している。長期的に経過を見る必要有り。
一、予診 素質は良いので応急処置をし、転地療法により回復の見込み。併し、治療法を間違う及び手当を怠れば死亡の可能性有り
一、療法 原因を断ち根治させる必要有り。

処方箋

学校教育 適量
補習教育 適量
幼稚園  適量
図書館  適量
新聞社  適量

上記の薬を調合し速やかに服用させ、20年で完治の見込み、他に効用のある薬剤に関しては省略。
1921年11月30日 担当医師 蒋渭水

Ⅱ、「臨床講義-台湾診断書」の特徴 

この文章は蒋渭水が台湾民報に寄稿した論説であり、これには1895年に台湾を武力により併合した台湾総督府の統治による影響を風刺する目的があった。
第一に、本診断書の特徴として、日本による統治を肯定していない点があげられる。
既往症の部分に、台湾は手の施しようがない。それは日本が植民地統治の為に設置した台湾総督府の統治下に入ってからだ、といった要旨の記述がある。
その既往症とは台湾における「学校教育」「補習教育」「幼稚園」などの教育施設の不備、そして公共施設である「図書館」の不足、言論の自由の尺度である「新聞社」が台湾ではほぼ成立不可能状態を指す。この不健康な土壌に関して告発する本診断書は、日本から赴任してきた総督府官吏の無能と不見識を嘲笑していると解釈できる。

第二にこの文章の特徴としては、台湾人の中華意識の強さを挙げることができる。
蒋渭水は台湾人のアイデンティティーを中国の歴史文化の中に位置づけていた。台湾の本籍を「中華民国福建省台湾島」としているところ、また、台湾人の民族性の起源は中国古代の聖賢「黄帝、周公、孔子、孟子」の血族であると記載するなど随所からこの視点を垣間見ることができる。
清朝政権時代に福建省、広東省から台湾へと移住してきた人々には四書五経、孔孟の学の伝統が見られるが、この点、蒋渭水は福佬人や客家人以外の、当時2~5%の人口を占めていたと推定される台湾原住民のルーツへの観点が欠落していると言える。
蒋渭水自身は台湾議会設置請願運動の闘士としては比較的若い方であったため、林献堂のように一貫して儒教教育を受け科挙に合格して出世の階段を上っていくエリート世代には当たっていない。
5歳の時に台湾が大日本帝国の支配下に入ることとなった蒋渭水の漢学教育経験は、9歳で高名な儒学者である張鏡光に漢学の講義を受け、16歳で台湾総督府の公学校に入るまでである。

しかし、この7年間は蒋渭水に強烈な中華文化へのアイデンティティーを植え付けたようだ。
「台湾の孫中山」を自認し、『民生主義』『建国方略』『孫逸山伝記』などを自身が作った出版局である文化書局から発刊していた点などを鑑みても彼の思想には孫文の影響が随所に見られるが、その孫文が掲げていた三民主義の三本の柱のうち一本は民族主義である。
民族自決の原則を謳った台湾文化協会の機関誌の論説であるこの診断書にもその傾向は色濃く反映されており、だからこそ数千年来発展してきた中国の諸民族の系譜にあるとされる彼らは生来的に学と賢さのある民族性を持っており、これを根拠として今後環境さえ整えば自分たちで国を担い学問、政治、文化を発達させることができるとする彼の期待と予測を裏付けている。

更に見るべき点として本診断書の患者、台湾の職業欄には「世界平和を守る警備員」とあるが、ここには蒋渭水の世界的視野が現れており、彼の今後の展望は、台湾の地理的状況を鑑みて「日華親善」「亜細亜民族連盟」を通して最終的な目標「世界和平」に繋げようとするものであった。
ここにも蒋渭水に対する孫文の影響を見て取ることができる。しかし、台湾総督府医学校時代に袁世凱毒殺に失敗し、蒋渭水の学生時代のうちに潰されてしまった日本政府に対する武力闘争がことごとく失敗して以降、彼は一貫して非暴力主義を基軸としてで政治及び社会運動を行い、1923年からはじまる台湾議会設置請願運動の場においても、牢獄に投じられてもこの主義を貫き通した。

蒋渭水は武器を取って争うことのない世界を作り出そうとしていたのだ。さらに言えば、患者である台湾の職業が警備員であるところも、台湾人と一種擬人化され総括される彼らが、文と共に武をも昔の諸王たちが誇った民族の末裔であり、戦闘に際してはとても屈強であるが、あえてその力を平和利用しようとする意図も見て取ることができる可能性がある。

そして、診断書として題されているだけに医学的な用語が多数使われており、転地療法や栄養不足、原文には「腸感冒」などの文言が見られる。
蒋渭水は医学校を出て勤務医をした後大安医院を開業していた歴とした医者であり、彼の医学的な知識は総督府医学校の講義や宜蘭医院の就労経験や得られたと考えて差し支えないだろう。

これはドイツ医学を中心に輸入した日本の東京帝大や慶應義塾、及び後藤新平が民政長官をしていたため愛知県医学校や順天堂などで培われた技術が台湾に輸入されたと考えるのが妥当であろう。
台湾総督府医学校における蒋渭水が在学中の校長は東京帝大医科大学を出、北里柴三郎の伝染病研究所で研究をしていた高木友枝であり、彼は大隈重信が会長となり、副会長に順天堂病院長の佐藤進、北里柴三郎などを擁する、中国に日本の医療を広めることを目的としていた同仁会などにも関わっている人物であった。高木は台湾人や中国人に好意的であった。
高木がペストやマラリアなどの感染症の防疫に努めたことから、当時の日本統治期の台湾における西洋医学のレベルを察することができる。

蒋渭水の歴史観については、1600年代中盤のオランダ植民地統治時代に及びそれ以前に関しては特段言及はなく、鄭成功統治期間を理想の時代とし、清朝政権下にあった時期を文化的堕落と捉え、日本統治機構の下では瀕死であると書いている。
台湾は氷河期には中国大陸と地続きであり、そこから人類が歩いて移動してきたと考えられている。台湾における人類の歴史は旧石器時代の後半から確認することができる。
新石器時代の遺跡からは中国の貨幣が出土しており、交易が行われていたこと、台湾原住民は中国南部から移住してきたことが推定される。
そしてオランダ統治期には福建省や広東省から漢人が移住し、19世紀始めまでこの流れは続き、漢人の系譜の人々は200万人を越し、先住民族をその数で圧倒するに至る。そして内地人と呼ばれた日本人が移民を開始し、その人口を増やしていくという歴史経緯がある中で、蒋渭水の見解は多少なりとも妥当なものであると言える。

Ⅲ、「処方箋」についての検討

蒋渭水が国を治す医師として出した処方箋は、「学校教育」「補習教育」「幼稚園」「図書館」「新聞社」であった。
蒋渭水は知識を漢訳洋書や日本語訳された洋書などから幅広く取り入れたが、彼はその中心であり多くを日本の政治、経済、社会、教育学に頼っている。
台湾診断書というこの記事は板垣退助が唱導、林献堂、蔡培火、蔡恵如が参加し大隈ら政治家の賛同を得て「台湾人にも日本人同様の権利待遇を与えること」を目指したが在台日本人の反対によりひと月で解散となった同化会の文脈を引く組織の機関誌台湾民報に掲載されたものである。そしてその前進である「台湾」「台湾青年」には日本人学者も多く寄稿している。

蒋渭水は日本の諸大学の中でも特段早稲田大学に対して憧れを持っていた。彼が評価したと考えられる点は、植民地主義国家の中でもリベラルな視点を保ち、非植民地側の視点から自治独立の必要性を学術的に論証した点、そして政治を研究できる学校としては国内随一であり、自国語での教育を推奨した点である。

蒋渭水は1924年に獄中で書いた手記「畢業早稲田大学了」において早大政治経済科講義録を読了し、早大校外生になったと記述しているが、彼はこの過程を終える前から「台湾」及び「台湾青年」の同人として編集を通して大正前期から早大教授の講義を既に受けていたと言う事ができる。

その他にも彼に対しては京都帝大の植民政策学の研究者、山本美越乃が第一次世界大戦後に「同化から自治へ」「参政権の獲得」をスローガンに提言した台湾議会設置案やそれを台湾人学生に広めた明治大学教授の泉哲、植民政策学の権威である新渡戸稲造の弟子であり、台湾議会設置請願運動を支援した東京帝大の矢内原忠雄など日本の大学の諸学者の影響がとても大きい。

以上を前置きとし、彼の処方箋の具体的内容を検討していこうと思う。
まず処方箋第一の「学校教育」そして「補習教育」に関しては、彼自身公学校と総督府医学校に通学経験があり、公学校の少なさと政府が割く予算の少なさ、そして大学が医学校の一つしかなく、そこでも学べる学問内容がかなり限定されていることに問題を感じていた。
無論大学卒業以上の年齢の台湾人が通うカルチャースクールや生涯教育機関、学校に通いつつ補助として利用される公的支援の下にある塾などの存在は望むべくもない。
「台湾青年」においては「台湾の教育問題に就いて」と題した論説で安部磯雄が批判を行っており、彼の憤懣に具体的な指針を与えたのではないかと推測される。
安部はこの記事において、日本人子弟に対する教育予算に対して台湾公学校に割かれる予算が少ないこと、学費は個人負担であること、台湾人と日本人が別学であるのに同化を強制するのは理に合わないこと、台湾に公学校の先に進学できる教育機関がないにも関わらず、海外や内地日本に留学しようにも現代の中学校卒業資格しか取れない公学校出身では日本の大学に入学する資格を得ることができずどうしようもない、などの点を弾劾している。
公学校の前身である国語伝習所の設立趣意は「土人に現行国語(日本語)を教授し」とあるため当時の総督府が台湾人をどれだけ卑下していたか、正規な教育を行う意思を持たなかったかは見て取れる。
そして、蒋渭水が講座を解説し、学問を教授する台湾文化協会を創設した理由とも重なるが、師範部、実業部、国語部などの中等教育機関や高等女学校、商業学校など高等学校を出た後進学するべき大学は当時の台湾には総督府医学校以外にはなく、大学に進学したい生徒は中国や日本、その他海外に留学する以外には方法がなかった。
蒋渭水は台湾文化協会において「包括台湾通史」「通俗法律」「刑法大要」「経済大意」「通俗衛生」「詩学淵源」「恋愛論」「社会郭清論」など、政治、歴史を含む多様な科目を設置し、蔡式穀や王敏川などの講師を招聘してこの協会を大学教育を受けられない若者の受け皿とした。

「幼稚園」という就学前教育機関を彼が挙げているのは特徴的である。蒋渭水は妊娠、出産、育児に関して多数の論考を執筆しており、彼が執筆した『婦女衛生』第五章では、人間の生殖は男性が能動的、女性が受動的に行われるが、両親として双方には同じ重さの責任がかかるため、女性は自らの身体や権利、母親としての義務に自覚的でなければならないと彼は説いている。
日本では1875年に誕生し、明治後期に民衆に知られるに至り蒋渭水がこの原稿を完成させた大正中期には心理学、モンテッソーリの教育思想の導入、童話の導入など保育手法の改良が図られていた。台湾では日本の教育制度の影響を受け、1897年に台湾人子弟のために台南共立幼稚園、1900年に日本人子弟が通う台北幼稚園が創設されたが、幼稚園も非常に不足しており、就学前教育は相変わらず学堂や私塾が担っていた。

図書館に関しては、私立の台湾文庫と石坂文庫を全身として1915年に出来た台湾総督府図書館や1921年に創設された台中州立図書館があったが、市民に親しみのある施設とは到底言えなかった。
総督府の台湾における図書館政策は、台湾を図書館学や図書館技術の実験台にしようとするものであり、台湾総督府図書館の創設に噛んでいた太田為三郎は、内地日本と比較しても台湾の図書館の方が先進的であると「地方図書館の経営」で説いている。
蒋渭水は市民の手に本がないことを憂いて1926年には中国の名著と日本の労農関係の書籍を販売する文化書局を開設した。ここでは日本語の書籍と漢語の書籍を両方取り扱い、『欧州政治思想史』『中国哲学史大綱』『経済的政治基礎』『マルクス主義経済学』、松下芳男『資本主義と戦争』安部磯雄・堺利彦らの『資本主義と農村問題』などを発売し、一時の繋ぎとしていた。
他にも処方箋に「新聞社 適量」とあるが、蒋渭水は台湾文化協会の機関誌である1923年に新たに創刊した「台湾民報」の社長に就任している。彼自身が主筆となって記事を下記もした。本社を東京に置き、10日毎に新聞を刊行し、台湾本土を含めて最大1万部を売り上げている。
これは実質的にその歴史や執筆陣に関してなどについて雑誌「台湾」「台湾青年」を引き継ぐものであった。それ以前は漢語と日本語混交状態であった紙面を、当時の執筆陣らが中心となって行っていた台湾における言語改革運動を広めるために漢語の会話文のみとしたのもこの新聞の特徴である。台湾新文学の運動もこの新聞連載を舞台として行われた。

以上の事から、彼は医師として日本の植民地支配下の台湾に適切な診断を下して処方箋を提示し、薬剤師として台湾に対して薬を処方するところまで責任を持ち、手厚く看護を行ったことがわかる。ここからは、彼がただ、一人の患者を治す医師であった以上に、政治家、社会活動家として国を治す医師であったことが伺えるであろう。

Ⅳ、参考文献

蒋渭水(蒋朝根編集・蒋知揚訳)『蒋渭水先生全集』財団法人蒋渭水文化基金会(2014年)
黄煌雄『蒋渭水伝 台湾的先知先覚』 前衛出版社(1999年)
加藤一夫「旧植民地図書館活動の研究をめぐって」『ず・ぼん 3』ず・ぼん編集委員会(1996年)
佐藤能丸『安部磯雄の研究』 早稲田大学社会科学研究所 (1990年)
矢内原忠雄『帝国主義下の台湾』 岩波書店(1988年)

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