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待つということ

鷲田清一『「待つ」ということ』(2023)を引用しながら、待つことの本質から見たコミュニティの重要性を考えてみたい。

鷲田は、現代社会を、待つことができない社会と形容する。

待ち合わせでも、LINEのメッセージ1つで、遅れることを伝えれば、相手は待つ時間を、読書や買い物、喫茶店での一服に使える。

相手が来るのか来ないのか、そもそもこの時間で合っていたのかも分からないところで、ただひたすらに待つ必要性がなくなった。

待つことをしなくてよくなった。同時に待つことができなくなった。

待つという行為では、相手もしくは何かが来ることを期待している。期待はするが、前のめりの姿勢ではない。

既に知っていることから、これから起こることを予想する。その姿勢は、既知を未知に投影しているに過ぎない。未来を切り取って、現在に先取りしている。

未来を先取りするのでもないが、かといって完全に受け身な姿勢になっているわけでもない。

期待するものはある。

待つ中で、そんな期待も膨らんでは打ち砕かれて、落胆の方が膨らんでくる。いよいよ、何の希望も生まれなくなる。

待つ中でひとは、おそらくはそれよりさらに追いつめられた場所に立つことになるだろう。何も希望しないことがひととしての最後の希望となる、そういう地点まで。だから、何も希望しないという最後の希望がなければまつことはあたわぬ、とこそ言うべきだろう。

鷲田清一『「待つ」ということ』(2023)

何も希望しないことから、本当の待つという行為が始まる。

待っている間は、何かを待つことに神経を集中させるため、待っている自分を意識せざるを得ない。

待っても待っても来ないという期待と落胆といら立ちの渦の中に、自らを放り込むことになる。

自分を、待つという行為に収れんさせてしまう。

そうした事態を防ぐためには、どうすればいいのか。

待つことを放棄するのである。待つともなく待つ。

これが、待つことの本質である。

待つことによる効果が実感できなくなった今、私たちに残されたのは、待つことではない。その行為を放棄することである。

ただし、それは待つことをやめることではない。待ってるが、待っていない。ー待っていないが、待っている。ー。

そういう矛盾した行為でしか、待つことは能わぬのではないか。鷲田は述べる。

待つともなく待つことの好例として、鷲田は母親をあげる。

母親は、子供の成長を待つともなく待つ。

自分がしたことが子どもに響かない。そもそも、響いているかどうかも分からない。いいのか悪いのか、育っているのかいないのか。通じているのかいないのか。

そんな、実感のわきにくい子育ての中で、母親は、それでも子供の成長を待つ。それはどのようにしてか。

日々の家事や子育てに自らを没頭させるのである。

日々の料理、洗濯、仕事などにかかずらう。

待つこと以外に神経を集中させることで、待つことを意識することなく待つことが可能になる。

自分の子育てが、相手に響いているのか、将来なにか考えて行動することにつながるのか、そんなことすらも考えないで、ひたすら日々を駆け抜ける。

そのことによってこそ、待つことは可能になる。


別のことにかまけることによって、待つともなく待つ。

この行為から、複数のコミュニティに属することの重要性が見えてくる。

恋人に振られる。

世界には、この人しかいないんだと思うほど依存してしまっていたら、おそらくその後もその人にくっつこうとする。

それは、親戚でも友人でも同じことである。

ひととの関係がうまくいかなくなったら、その人との距離をとる。あとは、時間の流れるに任せる。去る者は追わず来る者は拒まず、である。

その人に依存せずに、他のコミュニティで生活していく。

いくつかのコミュニティに属することで、1つに拘泥せずに、程よい距離間で付き合いができる。その中で、誰かを待つことも可能になる。

その結果、その人が離れて行ってしまっても、それはそれで新しい関係だと割り切って別の人を探す。

半ばあきらめにも似た姿勢が、逆説的に待つことを可能にする。

なかなかできることではないが、諦めを含んだ、待つともなく待つという行為を意識していきたい。




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