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そういう見方もある
『100の思考実験 あなたはどこまで考えられるか』(ジュリアン・バジーニ著、向井和美訳)から、あるお話を。
56 ピリ辛のミートシチュー
もったいない精神の強いデリア。ロンドン郊外に住んでいたときに、自宅の前で車にぶつかり死んでしまった飼い猫を、その日のシチューに使い家族にも提供した。
要旨は大体こんな感じ。
飼い猫を食べるのなんてもってのほかと、この考えを一蹴することはできる。ただ、別の見方もある。
仮に、ペットがなくなったとき、そのペットは、「食べられる」資源と捉えることもできる。そうすると、みすみす資源を捨てるわけにはいかなくなる。
そのため、デリアのようにシチューとして食べる方が道徳的だといえる、かもしれない。
そういう見方もあるのかと驚いた。僕は、この考えに肯んじないが、そういう見方もできることを知れたのは、大きな収穫だった。
話は派生し、「ペットを食べるのが、あるいは友人さえ食べてしまうのが、考えうる相互関係の極地だ、とみなす文化を想像することは難しくない。」というむつかしい領域にやってきた。
人がなくなれば、何らかの方法で葬る。火葬か土葬かは関係なく、兎に角死の儀式を執り行う。そのうちの一つに、自分に取り込むという方法があっても、不思議ではない。まあ、変ではあるが。
愛するを食べることで葬り、その人とつながることができると考える文化があってもおかしくない。
ただ、ほとんどの人は、ペットや他の人を食べることに、究極の気持ち悪さを感じる。この文章を書いていても、気持ち悪さを感じる。
とはいえ、そういう見方もあるのだという発見は、常にしていきたいと思った。
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