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郷土史を訪ねて 関東戦国史 上武国境紛争地帯〜利根川


 私の地元は北関東の深谷というところです。翔んで埼玉とか揶揄されるように、何の特徴もない、ただの街です。深谷市のすぐ北隣りは群馬県になり、利根川がその境になります。荒川とともに、非常に身近な存在であり、子供の頃、釣りしたり土手でラジコンしたりよく遊んだものです。

 深谷市は北は利根川、南は荒川に挟まれ、国道は17号と140号、電車は高崎線と秩父鉄道が走っており、主要交通手段になります。

 私の家から利根川を渡る場合、上武大橋という橋を使うことになります。上武大橋から眺める利根川と赤城山という風景は、北関東を象徴する風景であり、目を閉じればすぐに浮かんでくる懐かしい風景です。北関東の人間はわかるでしょうが、冬になると赤城山から吹き降ろす、通称(赤城おろし)または(上州空っ風)と呼ばれる強風があり、子供の頃、チャリがなかなか前に進まず難儀したものです。おかげで脚が強くなったか。とにかく冷たくて強い風でしたよ。

現在の上武大橋一帯。渋沢栄一記念館がある。



そして、上武大橋一帯は何気に歴史に関する地が多いです。いわゆるB級史跡。一部の人しか知らない、あまり有名とはいえない、北関東らしい、極めて地味な史跡が。世良田東照宮や、タイムリーなところでは渋沢栄一記念館とか。これとて大河や新札がなければ誰も見向きもしなかったであろう、地味なシロモノです。

 人々の行き交う場所に歴史あり。時代を通じて人々の交流が活発であったことを物語っています。子供の頃は歴史とかあまり知らなかったですが、大人になって調べてみると…。

 何もない埼玉ですが、そんな我が郷土にもなかなか面白い歴史があるものです。

 上武大橋一帯に、はたしてどんな歴史があったのか…




対決の東国史 小田原北条氏と越後上杉氏という本によると…


関東戦国史のメインプレーヤーである、上杉vs北条の、いわゆる越相戦争において、ここいら一帯は上杉と北条の利害がぶつかり合って争いの絶えない、越相戦争の最前線であり、(関東最悪の紛争地帯)、であったとのことです。○○の乱、というのはありませんが、恒常的な緊張状態にあったわけです。永禄3年の、上武大橋付近の様子はというと…。利根川沿いに多くの城が存在していたことがわかります。

永禄3年頃の上武大橋一帯 利根川沿いに城が展開している


戦国時代において、川というのは非常に重要なファクターであり、利根川沿いには、金山、館林、古河、佐野、関宿、深谷、忍(のぼうの城)、羽生など多くの城があり戦略上の重要地点であったことがわかります。これらを治める(独立国衆)は、上杉か北条か、どちらかの勢力に属して戦っていたわけです。上杉謙信は毎年のように越後から沼田〜前橋経由で攻め込んできますので、ちょうどここいら一帯でぶつかることが多かったようです。

 戦国大名の支配形態の特徴は、戦国大名が直接支配する土地があり、あとの大半はこれら独立国衆を自陣に引き入れたものを合わせたものになります。戦国大名が治める直轄地と、その周辺に従属させた独立国衆が衛星国のように存在しているイメージです。戦国大名といえども、いちいち身体張って戦争してたら身がもちませんので、いかにこれら独立国衆を調略によって自陣営に加えるかが重要になります。独立国衆は戦国大名の庇護下に入りますが、自らの土地はもっぱら自らの力量で治め戦国大名は干渉しません。そのかわり戦国大名が他国と戦になれば、兵を出す義務がありました。そういう意味で、これら独立国衆の動向が戦国大名同士の戦争のキャスティングボードを握っているといえます。ここいら一帯で有名な独立国衆は、妙院尼で有名な新田金山の由良氏、のぼうの城で有名な忍の成田氏などがいます。彼らは、その時々の情勢で上杉か北条か、コロコロと従属先を変えますが、それは自国の存立と領民を守るためのギリギリの政治判断の結果であり、当然の行為であったわけです。というか戦国時代なのでこのくらいは通常運転といえます。例えば、永徳年、上杉謙信が一番勢いがあった頃、関東の独立国衆のほとんどが謙信に従属しました。北関東のほぼ全域の国衆を敵に回した北条方は、この時に本国小田原城まで攻め込まれ、最大の窮地に陥ったわけです。


北関東のほぼ全ての国衆が上杉陣営に




 次になぜ現在の上武大橋一帯が関東最悪の紛争地帯と呼ばれるほど争いが絶えなかったのか。それは合戦において、川を渡る、(渡河)という行為にあるそうです。いつ、どのタイミングで、河のどの地点を渡るのか、というのは戦術上極めて神経を使うところになります。ひとつ間違うと、下手すりゃ全滅の浮き目に…。扇谷上杉当主の上杉定正は荒川において、渡河のタイミングの判断を誤り、渡河の途中で落命しています。かように合戦において極めて重要な渡河ですが…。上武大橋の一帯は、沖積平野がどうの堆積平野がどうの、とよくわかりませんが、地形上、渡河に極めて適した地点が多いということで戦略上の重要地点であったわけです。今でも赤岩の渡し船というのがありますが、この頃の名残なのでしょう。上杉謙信や、かの太田道灌もここを渡ったとか。てか、太田道灌ってやっぱマイナーなのかな。西日暮里の道灌山下のT字路の方が認知度高いか

現在の上武大橋


上武大橋から見た利根川。私でも渡れそうだが…


なるほど、こうして見ると、川の途中に島が点在し、渡るには都合がよさそうです。おそらく水深も他に比べて浅いと思われます。


赤岩の渡し船

わが地元の深谷城においても、数騎で連れ立って利根川渡って、隣の新田領から馬をかっぱらってきたとか、従属先を上杉から北条に乗り換えたら、謙信に腹いせに城下を放火されたりとか、なかなかカオスな日常だったそうです。まあ戦国時代ですので通常運転でしょう。

対決の東国史より抜粋


 上記抜粋文が対決の東国史という本の、まさに要旨になります。文中にもある通り、関東平野の覇権を握る🟰河を制す、というのが当時の武家社会の共通認識であったことがわかります。そして言うまでもありませんが、利根川は日本最大の流域面積を誇る河川です。

 源平合戦の折、足利忠綱という坂東武者が、増水する宇治川を前に渡るのを逡巡する味方に対して、「宇治川ごとき利根川に比べりゃなんぼのもんじゃい」と言って渡ってしまったという逸話がありますが…。坂東武者の戦の習いとして、渡河技術は必須だったのでしょう。


渡河というだけでなく、水利という点で、例えば関宿城(野田市)は、利根川と太日川(江戸川)の分岐点であるため、その水利の良さから北条氏康をして、一国を獲るに等しいと言わしめた城になります。

 そして江戸川をさらに下ると…

ここにも川沿いの城。松戸城に国府台城があります。いかに河川が戦略上の要所であったかがわかります。国府台は2度にわたる国府台合戦が有名です。国府台合戦はかなりの激戦であり、渡河の場面が何度もあります。

というかめちゃくちゃ近所ですねー。松戸近辺もけっこう戦場になってるので、けっこう史跡があります。そのうち書こうと思います。


 また、関東武家社会の共通認識として、利根川は軍事境界線として機能していました。利根川以東は東方之衆と呼ばれ、古河公方が鎮座しその影響力が強い地域になります。戦国時代といえども、実質上はともかく、名目上、古河公方は関東の頂点に君臨する存在になります。また東方之衆は佐竹氏、宇都宮氏、結城氏、小山氏など源平の頃よりこの地に根ざしている名家名族になります。ゆえに保守的な土地柄であるといえます。戦国時代の始まりとされる享徳の乱では、利根川を境に関東が二分され戦になりました。

利根川が軍事境界線として機能




ということで、私の地元の利根川近辺の歴史の一端の紹介でした。それぞれの地元に、それぞれの歴史がありますので、調べてみるのも面白いと思います。


著者近影



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