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おでんの日

 夕飯は久しぶりにおでんにした。残暑が長く厳しかったのと、折からの野菜の価格高騰のあおりを受けて高値になっていた大根に手を伸ばしづらかったのだが、朝晩などしっかり冷え込むようになってきた。買い物に出かけた商店街の八百屋でほどほどの質の大根がほどほどの価格で売られているのを目にして、これはもうおでんを作るしかないと決めた。コンビニのおでんがよく売れるのは真冬よりも秋から冬にかけてらしいと夫が何かで見たそうだが、つまりまあそういう事なのだろう。

 おでんを作る時は少量でなく大鍋でどかんと作る人が多いだろう。できるだけ具材の種類は多く入れたいし、好きな具は幾つも食べたい。そうなると必然的に家にある一番大きな鍋で大量に仕込むことになる。子供が幼かった頃は余らせるのが不安でもう少し小さな土鍋で作っていたが、子供が食べ盛りの今は大鍋でも一度に入り切らないほどの具材を用意して、それでも数日で食べ切れるようになった。

 前日夜から仕込みを始める。大根は少し小ぶりだったので2本購入し、贅沢にも中央を2本分使って形も綺麗で筋の少ない部分ばかりを用意した。面取り、十字の隠し包丁も入れた。下茹でをしつつ別の鍋で牛すじの下茹でも開始する。牛すじは私は全く食べないので以前はスーパーの練り物コーナーに売っているメンブレン串を使っていたが、一度すじ肉を家で処理しておでんに入れたところ夫に好評で、それからはできるだけすじ肉を買うようにしている。価格も安くはなく手間と時間が余計にかかるのだが、これを入れると出汁の美味しさが一段上がるような気がする。あまり高くない、ほどほどの価格の国産のすじ肉の中から比較的美味しそうなパックを選んで、楊枝がささるくらいに柔らかく下茹でをする。よく冷めてから一口大に切り分け、竹串に刺していく。これとあとは下茹でした蒟蒻、ゆで卵も準備する。

出し汁は白だしとみりん。大体1500mlの湯に白だしを3/4カップから1カップ弱、みりんを大さじ2〜3杯。味を見ながら適宜調整する。昆布は入れても入れなくても。ここに大根、蒟蒻、卵、牛すじ串などを入れて、ぐつぐつ煮たたない程度に火加減を調整して1、2時間煮込む。実家ではある程度煮込んだら新聞紙とタオルで包み、味を染み込ませていたが我が家では置き場もないのでそのまま一晩放置。気温が低くなった今だからこそ常温放置もできる。

 翌日たまに思い出したように火入れをしつつ、夕飯の少し前から練り物類を投入する。厚揚げ、ウインナー巻き、ごぼう巻き、平天、つくね、豆乳揚げ出し。竹輪など、定番だがうちでは人気がなくて入れなくなったものもあり、このラインナップがお決まりとなった。最後、テーブルに出す直前に餅巾着を入れて鍋を温める。餅巾着は市販の練り物コーナーに並んでいるパックを買えば、3個入って200円くらいする。だが特売の油揚げと正月の残りのパック餅を使えば安く大量に作れる。子供たちが大好きなので3個では到底足りず、今回は8個作った。

 ご飯も炊けた。今日は新米だ。チューブの辛子と七味唐辛子も用意した。前日の蓮根の挟み揚げなども食卓に並べて、中央に熱々のおでん鍋をでんと置く。いい匂いがずっと家中に立ち込めており、子供は夕方に出汁の味見をしたいとねだるほどで、さあ食べようと声をかけると飛んできた。
 あらかたの洗い物を終えてから、私も食卓につく。どうしても食後になると片付けが面倒になってしまうので、少しでも台所を片付けてから食事をしたい。子供たちはほぼ食べ終わり、夫は晩酌をしながらゆっくりとおでんをつついていた。

 さて、何から食べよう。大量に作ったため、心配せずとも切れている具材はない。大好きな卵、大根をまずは取り皿に入れていく。それから厚揚げ、私は好きだがあまり人気のないごぼう巻き。平天と、蒟蒻も食べようか。少し出し汁をまわしかけて、皿のふちに辛子を少し絞り出す。大根に箸を入れると、しっかりと形は保ったままスッと下まで入っていった。味もよく染みて、今日は本当にいい出来だった。小さな満足感を味わいながら、厚揚げも一口大に切って口に運ぶ。蒟蒻には絶対辛子が必要だ。たまにつけすぎては脳をダイレクトに刺激するかのような辛さに悶える。昨日のおかずの残りも口にしながら、でも、私はご飯と卵には決して口はつけないのだった。

 夫は私より早くから食事を始めている。晩酌しながらなので1時間以上はずっと食卓についているのが常だ。そろそろ2時間になる。いい加減頃合いではないかと、私はゆっくりとおでんやおかずをつつきながら夫が席を立つのを待っていた。茶碗の中のご飯も取り皿の中に残された卵も、もうすっかり冷め切っていた。

と、ごちそうさま……と夫が呟きながら席を立った。私ははいと返しながら安堵していた。だらだらと食べていたらかなり満腹になってしまった。もうこれ以上は入らないところだった。夫がソファに座ってテレビを見出すと食卓には私1人残された。私は取り皿の卵を茶碗のご飯の上に乗せた。4つほどに卵を箸で割った後、取り皿に残った出汁を全部上からかけた。さらに鍋の出し汁を掬って茶碗にかけた。七味唐辛子をその上からぱらりとかけて、改めて心の中でいただきますと唱える。これが私の多分この世で一番好きなご飯、おでんの出汁かけ飯なのだ。恥ずかしくて夫や子供の前では大っぴらにはできない。なので皆が食べ終わってからこそこそと、でもこれだけは譲れないので必ず食べることにしている。卵の黄身が出し汁に少し溶け出してまろやかな味わいになっている。出汁自体も練り物やすじ肉、大根などの旨みがたっぷりと含まれている。その出し汁がご飯を包み込んで、米の一粒一粒がくっきりと際立つように存在感を増して、口に流し込むと喉の奥に心地よく入っていく。濃い味というわけでもないので、人によってはピンとこないだろう。出汁かけだけでも引かれそうだが、ここに卵も少し溶かし込んでいるのだから、下品と言われるのも承知の上だ。だが子供の頃からこれが大好きで、最後の晩餐と言われて思いつくのもこれなのだ。決して人には言いたくないのだが。

 残った米の最後の一粒まで箸で綺麗にかき込んでから茶碗を置く。大満足のため息をつきつつ、このために丸一日以上かけてもおでんを作りたいのだよなあなどと思う。しかしそれにしても満腹だった。この締めの一杯を食べたいが為に寄り道をし過ぎた。結局布団に横になってからもまだ苦しい程で、それでも出汁かけご飯を食べたことについては一切の後悔はないのだった。

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