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 朝、弁当に梨を入れようと手に取った。
先日実家の母が送ってくれたものだ。10kg箱にこの時期旬を迎えた2種類の梨が詰め合わせになって届いた。母方の親戚の農園に注文してくれたのだった。
日持ちがすると言われてすぐに食べなかった方の、王秋という梨だった。大きくてざらざらとした手触りの赤梨だ。少し面長のその梨を半分に割ってみると、思ったより熟れていた。弁当用に少し取り分けて、残りは早めに食べようとマリネにした。

 マリネといっても甘いマリネだ。紅茶と砂糖に少し漬け込んでおくと、果物自身のもつ果汁と合わさって馴染んで、硬かったりいまひとつ甘くない果物でも風味が良くなる。梨自体もまあまあ甘さがあったのでそのまま食べてもよかったのだが、今年はこの食べ方に嵌って桃や洋梨で何度か甘いマリネを作っていたのだった。一度に食べ切るには多いので、作り置いてちびちびと食べようと思った。
王秋は二十世紀と中国の梨を掛け合わせたそうで、程よい酸味と甘み、良い香りがする。歯触りはしゃくしゃくとして小気味が良い。熟れ過ぎたといってもまだその良さは残っていたが、多少見た目が悪い部分があった。その部分は取り除いてすぐに口に入れてしまう。見目の良い残りを食べやすい大きさにカットして、グラニュー糖とダージリンのティーバッグを振りかけて混ぜて、冷蔵庫に仕舞って置いた。弁当を作り終えて子供を学校へ送り出し、遅い朝食に少しマリネを食べてみると、程よく紅茶の風味が拡がって美味かった。梨の風味が負けないようにアールグレイではなくダージリンにして正解だった。夜に食卓に出したところ子供にも好評で、結局今日のうちに全部食べきってしまった。

 実家でも以前は梨を作っていた。私の祖父が始めて、子供の頃はそれが家業の柱だった。専業農家ではなかなか苦しいと徐々に収入の中でのウェイトは下がっていき、私が家を出た後に2つあった梨山の梨の木は全て伐採してしまった。しかし私の子供時代は常に暮らしの中に梨があったので、今はもう作っていないということが今ひとつ実感できていない。

 田畑も勿論やっていたが自宅で食べる分が多く、梨は出荷用の作物だった。農家の春は忙しく、田植えもあるが梨の受粉やら摘果やらでおおわらわだ。子供達も駆り出されて、手伝いなんだか邪魔なんだか、毎年作業をした覚えがある。

 梨の花は白い。春、梨山はその白い花で斜面が覆われる。頭に手拭いを巻き、汚れてもよい格好に身を包み、家族総出で山に登り、脚立に乗って枝に手を伸ばす。白く、ほんのりと緑かがった梨の花を注意深く摘んでいく。花粉を取るために花を摘んでいくのだ。私はこの作業が密かに好きだった。赤毛のアンが白い林檎の花の下で夢想したように、空が一面白い梨の花で覆われた中でただひたすら花を摘むのは、しんどい作業ではあったが非日常が子供心に楽しかった。梨の花は手のひらの中でかさりと軽く、ちいさな花弁は丸まって愛らしかった。

 摘んだ花は足元のコンテナにどんどん入れていき、まとまった量になったらベルトコンベヤで麓まで下ろしていく。子供達はコンテナと一緒にベルトコンベヤに乗せてもらい、山を上がり下りした。油の臭いがぷんぷんして、起動させると爆音が響くその機械に乗るのも楽しかった。花は自宅の近くの作業小屋に運ばれて、採葯機にかけていく。白い花を少しずつ機械に入れていくと、青臭いような独特の香りが立ち込めて、花びらなどが取り除かれ、葯と呼ばれる花粉の詰まった赤い部分のみになる。これを更に篩にかけ余分なものを取り除いて、今度は開葯機に入れて乾燥させて、ようやく花粉がとれる。気が遠くなるほどの手間をかけて、まだ花粉がとれただけだ。これを時期になると人工で受粉させていく。

 受粉には梵天を使った。耳掻きについているふわふわのあれだ。勿論耳掻き部分はついていない。花粉を入れた容器にそれを突っ込んで、少しずつ花につけていく。つける場所にもポイントがあって、父から教えてもらったが子供のことでよくわかっておらず、なんとなくの勘でやっていたように思う。

 春の花粉とり、受粉や摘果、夏から秋の収穫。あまり家の手伝いもせずに遊んでいた私たちきょうだいだったが、今思い返すと手順から何からありありと思い出せる。お駄賃も貰っていたような記憶があるが、それなりには手伝っていたのだろうか。苦労の割に農業は見返りが少ない。天候不順などもあり、手間をかけただけのものが返ってくるとは限らない。祖父が始めた梨作りは賞をいただいたこともあったが、父の代でやめてしまった。父は資格を取って別の仕事に就き、それから念願の政治の道に進んでいった。子供達は誰も跡を継がなかったので今は山も田畑もやめてしまい、父亡き後は母が自分で食べる分を作るだけになってしまった。

 今はがらくたが積まれた車庫の一部は昔は作業場の一つとして使っており、採ってきた梨を選別したり箱詰めしていた。秋は梨が山となってそこに積んであり、傷物は好きなように食べて良かったので、小腹が空いたらそこで梨をいくつか頂戴して食べたものだ。資材も沢山置いてあった。梨を包む何種類もの包装紙や、サイズや品種別の段ボール箱。箱を閉じるお化けホチキスのような梱包の機械や、テープを巻きつける機械。それらのものは今でも2階の物置に置いてあるだろうか。母がもう使わないものは少しずつ処分していると言っていたが。私は車庫の2階が好きで、勝手に上がってはこっそりそこで本を読んだりしていた。物が多く、一見しただけでは奥に私が隠れているとは気付けなかったと思う。梨の包装紙の入った段ボール箱を机にし、発泡スチロールで出来たネットの入った大きな袋をクッションにして、すりガラスの窓から差し込む、埃を受けてきらきらと輝く日差しの中で、繰り返し何度も読んで尚飽きない大好きな本たちのページをめくっていた。

 田舎育ちのことで、近所の山を駆け巡ったり外で遊ぶのも日常だったが、生来のインドア気質の私にとってそこは誰とも共有したくない秘密基地だった。秋に梨が送られて来るたびに、今ではもう遠い過去となった私だけの記憶を少しだけ思い返している。

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