石牟礼道子 『タデ子の記』 を読む

昭和18年に16歳で道子は代用教員になりました。そして敗戦の21年3月に戦災孤児であるタデ子を拾い、自宅に連れ帰り50日間面倒をみました。道子18歳でタデ子15歳(17歳かもしれない)でした。簡単に言えば『タデ子の記』はその顛末を記したものです。わずか17頁に敗戦直後の日本がどういうものであったかを、50日間のタデ子のことを、50日の果てにタデ子が道子の元を去っていたこと、そしてタデ子を引き留めることのできなかった道子の惨めさ、小ささが記されています。
 
読みながら、タデ子がその後どうなったかを、生き抜いてささやかながらも幸せを手にすることができたのか、あるいは野垂れ死にしてしまったのかを考え、そして何もできないおのれの惨めさ小ささを私も思わざるをえませんでした。
 
敗戦後、牧師であった伯母夫婦が10人近くの戦災孤児の面倒をみていたのを思い出しました。街には戦災で子供を失った親たち、家を焼かれ両親を亡くした子供たちがあふれていました。子供たちは着るもの食べるものがなく、物乞いをしたり、かっぱらいをしたりして一日一日を生き延びていたといいます。そうした浮浪児たちは虱だらけで、まともに食べていないので、栄養失調でお腹が膨れたり、慢性的に下痢をしたりしていました。叔母夫婦は食料確保のために畑を耕したり、寄付をお願いしたり奔走したそうですが、自分の子供たちを含めて満足な食事をさせるのがとても大変だったと言っていました。そして数年後、彼ら全員叔母夫婦の元を離れたと聞いています。彼らがその後どうなったかは聞いていません。国やGHQが手厚く保護したということはとても考えることはできません。とても大変な生涯であったのではと想像します。
 
『タデ子の記』は道子の処女作であり、彼女の特徴である天草や不知火の言葉はまだでてきません。18歳の時に書いたもので、内容は事実に即したものであり、エッセイでもあり、物語でもあります。後年のものと比較すると未熟さも感じられる作ですが、まさしく石牟礼道子が書いたものです。道子が狂女であった祖母のおもかさまとの交感の中で育まれた、鋭敏な感覚と、疎外されたもの、奪われたものにたいする高い共感力が産んだものです。
 
「山口先生は十円札を一枚汚れたポケットに押し込んで下車し、溝口先生は、十字架のついた巾着をくれて津奈木で降りました。私は伸び放題の髪をすいてやろうと思いつき、櫛をとり、タデ子のアゴに手をかけ、ギョッとしました。それは全く、骨という感じだったのでございます。私はその冷たい骨の感触と、ゴマを一面にふりまいたような、シラミの卵を見ましたとき、とうとう涙阿賀こぼれてしまいました。
 とても、その体では歩けまいと思い、背中を向けてせおったとき、また私は泣きそうでした。まるで木のかけらか何かのようでございましたもの・・・」
 
石牟礼道子の物語は読むのに時間がたいそうかかります。『椿の海の記』を並行して読んでいるがいつ読み終わるかわからない。時間をかけるだけの物語を何度も読むことになりそうです。生きているうちに、このような場らしい作家を知ることができて幸せです。

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