いじめと成功体験

最近このような記事を読みました

2016年9月、兵庫県加古川市立中の2年生だった当時14歳の女子生徒が同級生らからのいじめを苦に自死した。7年後、両親は娘の死と向き合い続ける日々の中で、加害生徒の1人が実業団スポーツ選手として活躍していることを知ってしまった。「娘の未来は絶たれてしまっているのに、なぜ…?」。もう会うこともできない娘とのあまりの“落差”に、抑えきれないほどの憤りと悔しさが再燃した。

 事件後、加害生徒から直接謝罪の言葉はなく、いじめを本人らが認めたかどうかもはっきりしないままだった。両親は当時から生徒らへの厳しい指導を学校や市教育委員会に求めてきたが、学校側はその裏で加害生徒たちの一部を学校推薦で希望の高校に進学させていた。遺族に情報が開示されていないため定かではないが、同級生らの証言によると、後に実業団選手となった生徒もいるとみられる。父親は信じられない思いで、こう疑問を投げかける。「遺族をバカにしている。こんなことが許されていいのか」―(共同通信=木村直登、岩崎真夕)

加害者の今を知ってしまった…「娘の未来は絶たれたのに」中2いじめ、遺族の憤りと煩悶 学校推薦で高校進学、実業団選手に。謝罪はないまま


まず、亡くなってしまった方のご冥福をお祈りするとともに、遺族の方々の悩みや苦しみが少しでも軽くなることを願います

ですが、加害者がほとんど制裁や罰を受けずに生活を続けていることに遺族が怒るのは当然で、あまりに救いのない話です

そんな記事の中で気になる文章を見つけたので、不謹慎だと思いますがここに残します




いびつな「成功体験」にならないか

加害生徒が推薦で進学するケースは多いのか。武田さんは「万引などの犯罪や有形の暴力の場合は推薦が取り消される可能性が高い。でも、言葉や態度による暴力は相当悪質でも許されてしまう現状がある」と指摘する。

 進学先にいじめの情報が伝わらなければ、加害生徒を注意する人がいなくなる。何のペナルティーも受けぬまま、自身の行為を反省する機会が失われてしまうと、同じことが繰り返されることにもなりかねない。「相手が死んでさえ、大したことはないという、いびつな成功体験になってしまう」。

加害生徒に当事者としての自覚を促し、いじめを繰り返さないようにすることが大切であり、教育機関の責任だと考える武田さん。推薦に際して遺族側に許可を求めるなど、何らかのハードルがあってもいいのではないか、と提唱した。

加害者の今を知ってしまった…「娘の未来は絶たれたのに」中2いじめ、遺族の憤りと煩悶 学校推薦で高校進学、実業団選手に。謝罪はないまま

タイトルにもしていますが
「ペナルティを受けず、反省する機会がなければ成功体験になってしまう」という部分についてです

私はこの文章を見たとき
「いじめが成功体験になるために必要な条件はなにか?」という疑問を持ちました


いじめが成功体験になる条件とは?

最も大きな条件は「いじめた人間がいなくなること」だと思います
この点でいえば「相手がどこにもいない」という結果はあまりに大きな成功と言えると思います。また、不登校になっても「いじめは成功した」と言っていいでしょう

次に思いつく条件は「いじめることで相手を変えることが出来る」です
相手の容姿や行動などの気に入らない部分を攻撃し、それを変えさせることが出来れば成功したと言えそうです

これらの条件で考えると、いじめは高確率で成功体験になりやすいのではないかと思えます


相手が死んでさえ、大したことはない

この言葉も非常に印象的でした
私の出した条件でいえば、残念ながら
「相手が死ぬというのはいじめが成功した」といえます

死というのは間違いなく大したことでとんでもないことです
しかし加害者からすれば「消えてほしい人が消えた」という点で見ると
「単なる成功という結果で終わり」になってしまう可能性もあります。流石にそんなことはないと信じたいですが……




学校と子どもの失敗と反省について

失敗について

言うまでもありませんが、どのような理由であれ「相手の居場所や尊厳を奪う」「相手を攻撃によって変更させる」などの行為は許されるべきではありません

しかし一方で、このような感情自体はどこでも見かけることが出来ます
個人や行動に対して「居なくなればいいのに」「辞めてくれないかな」と思うことは一般的で、子どもは感情と思考をただ実践しただけという可能性もあります

そして、記事にもそこに留意すべきと書かれています

一方で、加害者もまた未成年であることは留意すべきとし、「子どもは失敗を繰り返して成長する。一度失敗したからと言って未来を閉ざし、さまざまな制度から除外するべきではない」とも指摘した。

 その上で武田さんは、加古川市の一連の対応を厳しく批判する。「学校や行政が保身に走り、再発防止の取り組みに逆行している。学校や先生が反省しないままでは、子どもを反省させることは到底できない

加害者の今を知ってしまった…「娘の未来は絶たれたのに」中2いじめ、遺族の憤りと煩悶 学校推薦で高校進学、実業団選手に。謝罪はないまま

失敗で愛する子どもの命を奪われるなんて遺族からすれば納得できるかは難しいでしょう
未来を奪われた人たちが「制度から除外し未来を制限することが適切だ」と考えても不思議ではありません

火に油を注ぐように、加害者たちはこのような証言も残しています

後日、第三者委の報告書を受け取る際、両親は委員会のメンバーから口頭でこう伝えられた。いじめ行為について12人の多くが自ら話すことはなく、聞き取りを最後まで拒んだ生徒もいる、と。両親の元には「いじめた人たちが『自分たちのせいではない』と言っていた」との同級生の証言も寄せられていた。

娘の死後、「いじめた側」に認定された12人のうち、弔問に訪れたのは2人だけだ。両親によるとその2人も自身の行為について謝罪の言葉はなかった。その他の生徒とは直接面会していない。

両親の心理的負担を考慮して、代わりに担当弁護士が加害生徒に対し個別に面談を実施している。聞き取りできたのは6人で、記録には「自分だけが悪いわけではない」と責任転嫁するような姿勢も垣間見られた。

加害者の今を知ってしまった…「娘の未来は絶たれたのに」中2いじめ、遺族の憤りと煩悶 学校推薦で高校進学、実業団選手に。謝罪はないまま

(このような責任転嫁では「子どもは失敗して成長する」という言葉で表現するのはあまり適切ではないような気もしてしまいますね……)

彼らの姿勢は間違いなく責任転嫁ですが、個人的には割と事実だと思います
いじめがエスカレートしていくと、誰がどの程度の悪意で行動していたのかが曖昧になっていくのは理解できます

本来であれば、エスカレートする前に学校や先生が十分に注意しなくてはいけないのですが
軽いいじめのうちは発見が難しく、エスカレートするほどやり方は陰湿になったり隠蔽しやすいものになっていきます
(私の受けたいじめは軽いものでしたが、先生の目の届かない場所で行われるのが当然でした)

学校や先生も万能ではないので、おそらく介入は容易ではありません
私も自分で先生に相談しました。先生がクラスの集会で全員に注意してくれたことでいじめは落ち着きましたが、いじめをしたという実感とそれによって誰かを傷つけたことへの反省や成長があったかは不明です

そもそも原因が私にあったという点もありましたが、少なくとも大きな問題にはならずいじめと呼ぶべきかも微妙な経験になりました

先生からすれば、いじめがどの程度か分からないうちは
「自制を促し目立つ行動を避けるように注意する」くらいが妥当になるのだろうと思ってしまいます

反省について

実際に、それだけでは反省させることは難しいのでしょう

報告書によると、いじめの始まりは小5の時にさかのぼる。本人の嫌がるあだ名が付けられ、無視が始まった。15年に中学校に入学後も複数の生徒から頻繁にからかわれた。いじめが深刻化したのは中1の3学期。「スクールカースト」の上位にいたクラスメートらが容姿をやゆするような名前のLINEグループを作成。影響を受けたクラス全体から明らかに孤立するようになった。報告書で「いじめた側」と特定された数は12人に上る。
 16年2月には「ミジンコ以下 死ねばいいのに」などと書かれた作成者不明の紙を渡された。中2になっても状況は改善せず、夏休み明けの16年9月、登校途中に自死を図り、1週間後に亡くなった。自室の机の上にはメモが残されていた。

 「どうして世の中こんなになってるの?クヤシイ…イタイ…シニタイ…」


「なぜ娘をいじめたのか」。両親はその後も一貫して学校や教育委員会に12人に対する指導を求めてきた。こうした要望を受け、市は加害者への指導計画を策定。「自らの言葉で事案を振り返らせ、反省の気持ちを継続して持たせる」方針を両親に提示してきた。
 しかし、その指導内容は遺族の納得とはほど遠かった。市教委に設置されている「少年愛護センター」の所長がまとめた「関係生徒、保護者説明及び指導概要に関する報告」は、指導日時をまとめた表を入れてA4用紙3枚分しかない。それによると、指導は2017年12月~18年2月、各生徒に1~3回行われ、「涙を流していた」「嫌な思いをさせたのかもしれないと話した」と指導時の様子が数行書かれている程度。中には「あだ名で呼んだことはない」と、いじめ行為を否定する言い分も含まれていた。

加害者の今を知ってしまった…「娘の未来は絶たれたのに」中2いじめ、遺族の憤りと煩悶 学校推薦で高校進学、実業団選手に。謝罪はないまま

嫌なあだ名をつけられたり無視される程度でも当然いじめですが、それに対する指導というのは簡単ではないかもしれません
現に「涙を流していた」程度では「嫌な思いをさせたのかもしれない」という曖昧な思考になってしまうようです(本当かはわかりませんが)

「嫌がってると思ってなかった・知らなかった」と思っている限りトラブルが続くことは想像できます。大人になっても相手の嫌がることを理解できない人はいますからね(私もその1人です)

自分たちの行動や悪意の結果が想像を超えるものになってしまった場合
責任転嫁や逃避的な思考をしてしまうのは仕方ない面もあると思います。死という結果は余計に現実感を薄めてしまうことでしょうから

このような結果をもたらしてしまったことに対して、どのように向き合わせていくべきなのか?加害者が責任はどの程度が適切なのか?
ただのいじめられっ子だった私には想像もつきません

このような結果を二度と繰り返さないように教育や道徳というものが機能してくれることを願うことしか出来ないのがなんとも悲しいですが、この辺りで終わらせようと思います

ではまたいつか


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