最近このような記事を読みました
まず、亡くなってしまった方のご冥福をお祈りするとともに、遺族の方々の悩みや苦しみが少しでも軽くなることを願います
ですが、加害者がほとんど制裁や罰を受けずに生活を続けていることに遺族が怒るのは当然で、あまりに救いのない話です
そんな記事の中で気になる文章を見つけたので、不謹慎だと思いますがここに残します
いびつな「成功体験」にならないか
タイトルにもしていますが
「ペナルティを受けず、反省する機会がなければ成功体験になってしまう」という部分についてです
私はこの文章を見たとき
「いじめが成功体験になるために必要な条件はなにか?」という疑問を持ちました
いじめが成功体験になる条件とは?
最も大きな条件は「いじめた人間がいなくなること」だと思います
この点でいえば「相手がどこにもいない」という結果はあまりに大きな成功と言えると思います。また、不登校になっても「いじめは成功した」と言っていいでしょう
次に思いつく条件は「いじめることで相手を変えることが出来る」です
相手の容姿や行動などの気に入らない部分を攻撃し、それを変えさせることが出来れば成功したと言えそうです
これらの条件で考えると、いじめは高確率で成功体験になりやすいのではないかと思えます
相手が死んでさえ、大したことはない
この言葉も非常に印象的でした
私の出した条件でいえば、残念ながら
「相手が死ぬというのはいじめが成功した」といえます
死というのは間違いなく大したことでとんでもないことです
しかし加害者からすれば「消えてほしい人が消えた」という点で見ると
「単なる成功という結果で終わり」になってしまう可能性もあります。流石にそんなことはないと信じたいですが……
学校と子どもの失敗と反省について
失敗について
言うまでもありませんが、どのような理由であれ「相手の居場所や尊厳を奪う」「相手を攻撃によって変更させる」などの行為は許されるべきではありません
しかし一方で、このような感情自体はどこでも見かけることが出来ます
個人や行動に対して「居なくなればいいのに」「辞めてくれないかな」と思うことは一般的で、子どもは感情と思考をただ実践しただけという可能性もあります
そして、記事にもそこに留意すべきと書かれています
失敗で愛する子どもの命を奪われるなんて遺族からすれば納得できるかは難しいでしょう
未来を奪われた人たちが「制度から除外し未来を制限することが適切だ」と考えても不思議ではありません
火に油を注ぐように、加害者たちはこのような証言も残しています
(このような責任転嫁では「子どもは失敗して成長する」という言葉で表現するのはあまり適切ではないような気もしてしまいますね……)
彼らの姿勢は間違いなく責任転嫁ですが、個人的には割と事実だと思います
いじめがエスカレートしていくと、誰がどの程度の悪意で行動していたのかが曖昧になっていくのは理解できます
本来であれば、エスカレートする前に学校や先生が十分に注意しなくてはいけないのですが
軽いいじめのうちは発見が難しく、エスカレートするほどやり方は陰湿になったり隠蔽しやすいものになっていきます
(私の受けたいじめは軽いものでしたが、先生の目の届かない場所で行われるのが当然でした)
学校や先生も万能ではないので、おそらく介入は容易ではありません
私も自分で先生に相談しました。先生がクラスの集会で全員に注意してくれたことでいじめは落ち着きましたが、いじめをしたという実感とそれによって誰かを傷つけたことへの反省や成長があったかは不明です
そもそも原因が私にあったという点もありましたが、少なくとも大きな問題にはならずいじめと呼ぶべきかも微妙な経験になりました
先生からすれば、いじめがどの程度か分からないうちは
「自制を促し目立つ行動を避けるように注意する」くらいが妥当になるのだろうと思ってしまいます
反省について
実際に、それだけでは反省させることは難しいのでしょう
嫌なあだ名をつけられたり無視される程度でも当然いじめですが、それに対する指導というのは簡単ではないかもしれません
現に「涙を流していた」程度では「嫌な思いをさせたのかもしれない」という曖昧な思考になってしまうようです(本当かはわかりませんが)
「嫌がってると思ってなかった・知らなかった」と思っている限りトラブルが続くことは想像できます。大人になっても相手の嫌がることを理解できない人はいますからね(私もその1人です)
自分たちの行動や悪意の結果が想像を超えるものになってしまった場合
責任転嫁や逃避的な思考をしてしまうのは仕方ない面もあると思います。死という結果は余計に現実感を薄めてしまうことでしょうから
このような結果をもたらしてしまったことに対して、どのように向き合わせていくべきなのか?加害者が責任はどの程度が適切なのか?
ただのいじめられっ子だった私には想像もつきません
このような結果を二度と繰り返さないように教育や道徳というものが機能してくれることを願うことしか出来ないのがなんとも悲しいですが、この辺りで終わらせようと思います
ではまたいつか