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人生初のロック・フェス POP HILL '85の記憶 HOKURIKU TEENAGE BLUE 1980 Vol.15 竜童組『ザ・カムイ』 

竜童組『ザ・カムイ』 作曲:編曲:竜童組 発売:1986年3月5日


『POP HILL’85』の衝撃。

その情報を知ったのはテレビCMだったか、地元の情報誌だったか覚えてはいない。85年の6、7月頃だと思う。イベントの出演者に、RCサクセションの文字を見つけて、とにかく参加を即決した。

イベントの名前は『POP HILL'85』。RCの他にも、いくつものグループ名が並んでいた。竜童組、アン・ルイス、ARB、子供バンド、Vocie Of Rythem。最後の、Voice Of Rythemだけは知らなかったが、他はよく聞く名前だ。これらを一挙に観られるという。なんとお得なイベントだろうか。

すぐにSに電話した。

Sは、当シリーズVol.12『僕が忌野清志郎の腕をつかんだ日』でも登場した、部活の1年後輩。とはいえ、先輩後輩というより、いつもつるんでいる「連れ」のような存在だった。

そのSは、前年の暮れに、自殺未遂を起こしていた。

デパートの屋上から飛び降り自殺を図ったのだ。普通なら絶対に助からないはずだった。しかし、その少し前にデパートが2階部分にアーケードを設置していたこともあり(以前にも同じ場所で飛び降りがあったので、その対策かと思われる)、奇跡的という他ないが、ほぼかすり傷ひとつ負うことなく生還した。

地元新聞でも、もちろん名前を伏せられていたが、「君は生きろ。神の声」という見出しとともに三面記事で大きく取り上げられた。

数日後、僕はSの家を訪ねた。はた目にはいつも通りに見えるSがいた。本当に、かすり傷ひとつなかった。僕は理由を聞き出そうとしたが、Sは答えなかった。

Sはそのまま高校を辞めてしまい、僕は高校を卒業し浪人生となり、その後、一度も会っていなかった。イベントを知ったとき、「これはSと連絡をとる、いいきっかけになる」と思った。

少し緊張したが、努めて普通どおりにふるまった(つもりだ)。電話に出たSに「おい、清志郎が金沢にくるぞ!」と出し抜けにいった。Sはこのイベントのことは知らなかったようだった。しかし、清志郎という名前の神通力は偉大で、すぐに僕の話に乗ってきた。

チケットはそれぞれで買うことにして、当日は一緒にいこうと約束をした。

ついに始まった、人生初のロック・フェス

そして当日。

日にちははっきりと覚えていないが(記憶のある方教えてください。8月12日だったような)、お盆の少し前あたり、8月の十日過ぎくらいだったと思う。

これも記憶は曖昧だが、たしか、香林坊あたりからシャトル・バスが出ていて、ふたりでそれに乗って会場の津幡森林公園へ向かったはずだ。

最後に会ってから半年以上が過ぎていたが、特に、気まずさも感じなかった。初めてロック・フェスを観に出かける高揚感も手伝って、ついこの前も会っていたような調子で、普通にバカ話をしながらバスに揺られていた記憶がある。自殺云々の話はしなかったし、触れるつもりもなかった。

バスから降りて、人の波についていくと、やがて会場があらわれた。

「うわ!」思わず声が出た。

眼下には、緑の草々に覆われたゆるやかな斜面が伸びていて、その先に巨大なステージが設置されていた。

ステージの前にはすでに人が集まっていた。僕らは、少し後方の人がまだまばらにしかいないあたりで腰を下ろし、開演を待つことにした。

トリは間違いなくRCだろう。他の順番はよくわからない。どのくらい待ったのか記憶にないが、ステージが始まる前に、進行役らしいMCの男性が現れて何事か話していたのは覚えている。やがて彼が、最初の出演者の名前を声を張り上げコールした。「Voice Of Rythem!」

最初に登場した彼らについては名前すら知らなかった。が、ライブが進むにつれて、1曲だけ知っている曲があった。この年放送が開始された、明石家さんまのトーク・ヴァラエティ『さんまのまんま』で使用されていた曲(だったような…)だ。

今回この記事を書くために、あらためてメンバーを確認してみて驚いた。石田長生、藤井悠、金子マリなどの名前が並んでいる。今だに現役で活動する(石田長生氏は残念ながら亡くなってしまったが)凄腕ミュージシャン集団だったのだ。85年8月時点では、金子マリはすでに脱退していたらしく、女性メンバーがいた記憶はない。

ユーチューブにある音源などを聴くと、ファンクを基調にデジタルビートを重ねたり、当時最新の音を追及した意欲的なバンドだということがわかるが、その時の僕は「いまいち乗れんかなー」くらいの感じでステージを眺めていた。

知名度的にもほとんどの観客が初見なわけで、なかなか熱狂的なレスポンスはのぞめないだろう。他の観客の反応も僕と似たようなものだった。そんな観客の反応に物足りないものを感じたのか、最後、ギタリストがギターをぶん投げてライブが終わったという記憶だけはある。その時だけは少し観客も沸いていた。


続いて登場したのは子供バンド。ストレートなロックバンドの登場で、一気に場内の温度があがったように感じた。ギター、ボーカルのうじきつよしは登場するやいなや「今日は俺たちが最年少。若さを見せつける!」と叫んで、ギターをステージに置くと、客席へ飛び込んだ。そして、そのまま全力疾走で傾斜を駆けあがっていく。どうやら会場最後方まで走っていくつもりのようだ。客席前方で眺めていた僕からは、彼の姿が見る間に小さくなっていった。

数百メートル先の最深部まで行き着いた彼は、そのままの勢いで今度は最上部から駆け下りてきた。ステージではバンドの演奏が続いている。ようやくステージ下にたどり着いた頃には完全にバテバテ。その姿に観客は爆笑している。

ステージに上がっても、息が上がり切っていて、ギターもろくに弾けていないし、ぜえぜえ言っているだけで、何を歌っているのかさっぱりわからない。曲間で絞り出すように「思ったより全然遠かった…」と言うと、しばらく膝に手をついて肩で息をしていた。

その後も演奏は素人目にもぐだぐだのまま。会場を走り回るだけで実質すべてが終わったようなもので、「この人は一体何をしに石川県までやってきたのだろう?」と思わないでもなかったが、なんだかその自由さも含めて「これがロック・フェスというものか!」と、僕は謎の感動さえ覚えていた。

次に登場したのはARB。メンバーはみな、黒Tシャツに黒いジーンズ。ステージ下も、いつのまにか似たような黒ずくめの集団が陣取っている。僕は名前を知っているくらいで曲はほとんど知らなかったが、Sはそれなりに知っているようで、体を揺らしながら聴き入っている。熱心なファンたちが、曲に合わせてこぶしを突き上げる様子が印象的で、「これがパンク・バンドのライブか~」と、やはり感動しつつ眺めていた。

ARBのライブが終わり、トイレに行こうと芝生を歩いていると、意外な顔に出くわした。当時つきあっていた女の子だった。彼女も誘っていたのだが「別の予定がある」と断られていた。「あれ?来てたんや」と声をかけた。友人らしき別の女の子と並んで座っていた彼女は、僕の声に気づくと、露骨に気まずそうな表情をした。

「うん、まあ」と要領を得ない言葉を続ける彼女の隣に腰を下ろした。そのまま一言二言、ぎこちない会話を交わしたものの、彼女の固い表情に間が持たなくなり早々に彼女の元から離れた。背中越しに「いいの?」という彼女の友人の声が小さく聞こえた。何事か返したらしい彼女の声は聞こえなかった。

付きあい始めて約一年。少し前からどこかぎくしゃくし出していることは、僕も感じていた。春に彼女は高校を卒業して社会人になり、僕は浪人生。新米社会人となった彼女の日々の苦労と葛藤に、僕はあまりにも理解が足りていなかった(と自分が社会に出た後に身に染みて思った)。

加えて、ほぼ初めて女の子と付き合いはじめた18歳男子の頭の中は大体想像がつくと思うが、彼女にしてもそんなリアルな男の姿と向かい合うのは初めてだったわけで、彼女なりにあった男女交際の理想と現実とのギャップのようなものが、だんだんと大きくなっていったのだと思う。

アン・ルイスの登場で、フェスはいよいよ佳境に。

急に現実に引き戻されて気分が急降下した僕だったが、それも長くは続かなかった。陽もだんだんと傾きかけ、ここからフェスも後半戦。アン・ルイス、宇崎竜童、RCサクセションが次々に登場する怒涛の時間帯である。

まず、登場したのはアン・ルイス。この頃はテレビの人気者だっただけに、知名度としてはそれまでのメンツのなかでは群を抜いている。ちなみに、1985年といえば、彼女の代名詞的な1曲『六本木心中』が大ヒットした年だ。リリースは84年10月だが、火が付いたのは約一年後。この日のライブは、時期的にその直前といったあたりで、僕にしてもこの時点ではまだ『六本木~』は未聴だった。

それより、82年のヒット曲『ラ・セゾン』や、83年リリースの『LUV-YA』あたりを楽しみにしていた記憶がある。

しかし、ブレイク直前のアン・ルイスは乗りに乗っていて、バンドも含めたステージのテンションは凄まじかった。

この日のライブでは、『ラ・セゾン』や『LUV-YA』などの当時の10代ならば誰もが知るヒット曲はもちろん披露され、この日一番の盛り上がりとなった。多くの観客がもっと前で見ようと押し寄せ、最前の柵をバイトの人員が必死で押さえている様子が、僕のいる位置からもちらりと見えた。

ライブの後半、あまりの盛り上がりにライブが一端中断され、MCの男性だったかスタッフだったかは記憶にないが、男性がステージに現れ「危険な状態なので、みなさん少しづつ後ろに下がってください」とのアナウンスが出された。

ここまでは現在でもよくある光景だ。しかし、男性が続いて出した指示は当時ならではのものだったのではないだろうか。それは「立ったままだとまた危険な状態になるので、みなさん座って観てください」というものだった。

そんな指示を受けた観客は僕を含め当然戸惑った。今なら「数歩ずつ後ろへ」の指示は出ても「座れ」はさすがにないだろう(と思う)。しかし、そこは純朴かつ大半がロック・フェス初体験だったであろう80年代の北陸の少年少女である。不満の声を漏らしながらも、みんな素直に従った。

そして目出度くライブは再開。そのままアン・ルイスのライブは誰一人立ち上がることなく、それぞれ体育座りをしながら拳を宙に突き上げて声援を送るという、なんとも不思議な光景が展開されることとなった。

本日の裏メイン、竜童組。

そして続くはトリ前。登場したのは竜童組だ。宇崎竜童を中心に、和太鼓など日本の伝統音楽の要素とロックのダイナミズムとの融合を掲げた、非常に意欲的な試みを行った個性的なバンドだった。

この頃、85年4月から『欽ドン!』の後番組として、宇崎竜童が司会し、竜童組のスタジオライブを毎回フィーチャーする『夜はタマたま男だけ!!』が放送されていて、僕はほぼ欠かさずこの番組を観ていた。

大ヒット曲『ハイスクール・ララバイ』を生み、その後は、柳葉敏郎などの人気者を次々と生み出し高い視聴率を維持したまま終了となったコント・バラエティー『欽ドン!』。その後継番組は、竜童組のライブや、ゲストと宇崎竜童によるくだけた内容のトークが中心で、テイストは『欽ドン!』とはほぼ真逆。ゴールデンタイムに深夜番組が放送されているかのような雰囲気で、詳しい内容はさすがにはっきりと覚えていないが、「東京の大人の社交場」というようなテーマは、地方在住の18歳にはとても刺激的だった。

そして、竜童組の楽曲も、毎週聴いているうちに、どんどんとその魅力にハマっていった。

最終回で宇崎竜童が「この番組は『欽ドン!』のつなぎだから」と自嘲的に語っていたが、いい意味での脱力感も手伝ってか、僕にはこちらの方が面白く、終わった時には心底残念に思った。そして、皮肉なことに続いて始まった『マイルド欽ドン!』は、それまでの萩本欽一の勢いが嘘のように低調な内容で、早々に打ち切られてしまう。「視聴率100%男」の終りの始まりのような形になってしまった。

話しは逸れたが、そういったわけで、僕は竜童組のライブを楽しみにしていたのだ。ところで、アン・ルイスのライブ時に出された「座ってままで」という指示は、竜童組のライブが始まってもそのまま継続されていた。不満の声が上がってもよさそうなものだが、どこまでも純朴な北陸キッズたちは大人しくそれを受け入れていた。

僕らの隣の男性二人組は宇崎竜童ファンらしく、全部の曲に大きく反応している。僕にはほとんど知らない曲ばかりだったが、きっと彼の代表曲も多く演奏されていたのだろう。かろうじて「ここまで来たらサクセ~ス!」など、ダウンタウン・ブギウギ・バンド時代の曲のいくつかは聞き覚えがあり、彼らと一緒に拳を突き上げた。

中盤に少し落ち着いた曲を続けた後、バンドが後半に向けてギアをあげてきた。相変わらず座ったままの観客も徐々にその熱に煽られている。それでもスタッフの手前からか「立て!」などと観客に呼びかけることを、宇崎竜童は決してしなかった。けれど、彼の言わんとしていることは、僕を含めた観客に伝わっていたと思う。

「そろそろいいんじゃないか?盛り上がるならここだぞ!」

バンドの演奏が一気にテンションを上げるタイミングで、指揮者のごとく宇崎竜童が腕を振り上げると、それを合図とするかのように前方の客が一斉に弾かれるように立ち上がった。それは波のように伝染して、後方へと伝わっていく。僕とSも立ち上がり、両腕を宙に突き上げた。

たぶんほとんどの観客にとって、鳴っているのは初めて聴く曲だったと思うが、そんなことは関係なかった。和太鼓の太いビートに、ロック・バンドのアンサンブル、縦横無尽に走るバイオリンが一体となり、奔流のようなサウンドが一気に観客をさらっていった。

その後、いくつものロック・フェスを観たけれど、この瞬間の場内の一体感というか、予定調和ではない自然発生的な雰囲気の素晴らしさ、高揚感は、僕のなかではいまだベスト級に位置している。

そのままライブは大盛り上がりのうちに終了。残すはトリのRCサクセションを残すのみだ。もうみんな立ったままだし、「座れ」の指示もない。

オオトリ、RCサクセション。清志郎に出されていた指示とは?

僕にとっては、昨年に続き、この日がやっと二度目のRCのライブ。興奮度はマックスだったはずだが、とはいえ、セットリストはさすがに記憶にない。ユーチューブにもこの年の動画は上がっていないようだ。

というわけで、記憶はかなり断片的。それでも覚えていることがいくつかある。

ひとつは、清志郎が、楽屋でアン・ルイスの衣装を借りたのだと、ピンクのシャツを指さしながら言っていたこと。もうひとつは、中盤以降何度も独り言のように「時間がないだと、時間は永遠にあるんだ」と繰り返し言っていたことだ。

最初はなんのことだろう?と思っていたが、だんだんと事情が呑み込めてきた。どうやら、ステージ袖から早めに終わるよう指示が出ているようなのだ。

「どうせVoice Of Rythemが押したんだろ!」と言うに及んで、事情がはっきりとわかった。しかし、清志郎は曲をカットするつもりなど毛頭ないようで、「時間は永遠にある」と言いつつステージを続けている。

ちなみに、この「時間は永遠にある」は、その後、僕の中で座右の銘の一つとして長く残った。今でも思わず「やばい、時間がない…」と口をつきそうになる時、「時間は永遠にある」と心の中でつぶやいて、落ち着きを取り戻すことがある。

結局、アンコールまできっちりやって、RCは去っていったと思う。

全部のステージが終わり、観客は一斉にシャトルバス乗り場へと移動している。たぶん長い列ができているだろうし、そんなものに並ぶより、もう少しここで余韻に浸っていたい。とうことで、Sとふたり、芝生に寝転んで夜空を眺めながら、たわいのない話をしばらく続けた。

今なら自殺未遂の原因も聞き出せそうな雰囲気でもあったが、僕はそれをしなかった。そんなことは、もうどうでもいいような気もしていた。Sは、高校にもどるつもりはないけれど、大検を受けて大学には行くつもりだと、夜空を見上げたまま言った。

それを聞けただけで、Sを誘ってよかったと、僕は思った。

「また一緒にRCを観に行こう」と、あの時、僕らは約束した。けれど、結局、以降ふたりで清志郎を観ることはなかった。

Sと会ったのも、この夜が(いまのところ)最後だ。

翌年の春、地元新聞に大学合格者の欄(というものがかつてあった)に、Sの名前が出ていた。それがSとの最後の接点になってしまった。

それだけに、この日のことは忘れがたく、記憶に残っている。

POP HILLには、その後、87年と91年と足を運んだが、その時はどちらも一人で行った。たぶん、ちらりとSのことが、当時の僕の頭をかすめていたと思うけれど、どうだろう? 今となってはよくわからない。

さて、長々と大昔のことを振り返ったが、もし、この文章を読んだ方で、『POP HILL85』に行ったよ!という方がもしもいらっしゃったら、コメントに当時の思い出を書き込んで頂けると、とてもうれしい。きっと、それぞれにとっての「あの一日」が存在するはずだと思うので。

ポップヒル85の動画が見つからないので、86年版を。RCはこの年もトリ。翌87年も出演したが、トリは大沢誉志幸が務めている。以降は出演していない。僕が最後にポップヒルを観たのは91年。その時はブランキ―目当てでした。


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